随談第24回 観劇偶談(その9)

新国立劇場でベルリナー・アンサンブルの『アルトウロ・ウイの興隆』を見た。おもしろかった。ときにくどいような部分もあるが、概ね快適なテンポで進む。ハイナー・ミュラーの演出はブレヒトが作中に指定したことからかなり自由なであるらしい。しかしいまここに書こうと思うのは、主役アルトゥロ・ウイを演じるマルティン・ヴトケの卓抜な身のこなしと動きである。鍛え上げた訓練を思わせる連続技とスピード感がすばらしい。

ナチスの興隆をシカゴのギャング団の青果業界乗っ取りという卑小な話に視点をずらしておちょくり戯画化するのが作意だから、アルトゥロ・ウイなる小男のギャングがヒットラーのカリカチュアであるわけだが、ソックリさんを演じるということは取りも直さず「批評」を演じることでもある。つまり、ある距離感を感じさせながらソックリさんを演じ、しかもそれは「熱演」でなければ少なくともヒットラーにならない。そのあたりの計算が素敵に的確である。

前半、アアこの男がヒットラーなんだなということを、観客万人に分らせる、というか、観客がそれと実感するのと、卓抜な身のこなしで動き回るヴトケの演技を通じて確信してゆくのと、観客がどんどん乗っていくのが相乗し、舞台と客席のボルテージが高まっていく。そこのところが絶品だった。

新国立中劇場にこういう芝居を見に来るほどの観客に、もちろん、このブレヒトの戯曲がいかなるものであるかぐらい、知識として知らない者はないだろう。しかしそのことと、芝居として目の前で演じられているものを高揚を覚えながら実感し、「面白い」と感じることとは別のことである。そうしてそうでなければ「芝居」ではない。歌舞伎批評風にいうと、つまりこれは、ヴトケの「芸」である。

ヒットラーのソックリさんを批評的に距離をもって演じたといえば、だれでもすぐに思い出すのはチャップリンだし、じじつチャップリンに似たところもあるが、しかし私に言わせれば、その似たところというのは、「西洋人」というものの身のこなしに共通するもので、もちろんそれはそれでおもしろいには違いないが、どちらかといえば、自然的なものだろう。つまり西洋人の俳優がたくみにヒットラーのソックリさんを演じれば、誰でも共通したものが出てくるに違いない。

それよりも、私が、似ている、と直感し、面白いとおもったのは、ヴトケがエノケンに似ていることだった。間というか、それが図ってするのではなくて、目一杯に身体を張って熱演している内に、一種のヴォリュームとして共通するものが立ち現れてくるのだ。そこの具合が、じつに面白い。

それにしてもこの日の新国立中劇場の客席およびロビーというものは、じつにインテリ顔標本室さながら、知識人ふうの人たちで充満していた。ほうぼうの大学のドイツ文学研究室が総見にきたかと錯覚するほどだが、もっとも、考えてみれば日本中のドイツ文学者を集めてもこれほどの数にはならないかも知れない。新橋演舞場や明治座のロビーや、つい翌日、美空ひばりの映画特集を見に行った池袋の新文芸座の客席とは大違いである。

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