随談第29回 俳優偶論(その3 尾上菊之助)

『十二夜』を初日に見た。劇評は例によって他に書くから、ここでは菊之助について書くことにしよう。実を言うと、菊之助は私にとっては論じにくい役者に属する。これは好き嫌いとか興味のあるなしの問題ではない。好きな役者が論じいいとは限らない。菊之助の場合、事はこの人の備えているオーソドクシイの問題と関わっている。だが『十二夜』の菊之助を見て、ひとつの手がかりを見つけたような気がする。

『十二夜』で菊之助は、ヴァイオラとヴァイオラが変装するシザーリオと、ヴァイオラの双子の兄のセバスチャンの二人三役を演じる。もちろん今井豊茂の脚本は世界を室町辺りに定め、役名も日本風にしてあるのだが、内容は小田島雄志訳を通じてシェイクスピアに忠実に従っているから、いまここでは原作の名前による方がかえって事が見えやすい。

ところで菊之助の演じるこの三つの役は、まったく見分けがつかない同じ顔をしているというのが、シェイクスピアの書いた設定である。このことは極めて重要な筈なのだが、新劇俳優による通常の上演ではいとも簡単に無視され、放棄されてしまう。理由は簡単で、同じ顔をした、それも男優と女優が二人揃うなどということがありえよう筈がないからだ。最終幕でヴァイオラとセヴァスチャンを同じ舞台に登場させないわけに行かない以上、新劇という演劇の持っている技術にはそれを可能にする方法がないのだから無理もない。しかし問題は、だからといってシェイクスピアがこの劇に施した設定をそうあっさり無視してしまっていいのか、ということになる。

だが今度の『十二夜』では、その不可能が菊之助によっていとも軽々と可能になった。もちろん歌舞伎には早替りとか吹替えといった技法があるからで、それを使えば菊之助でなくとも出来るわけだが、しかし私に言わせれば、菊之助以上にそれを効果的にやれる者はないだろうということである。女形から出て立役にも守備範囲を広げた芸の幅、若さと美貌。もちろんそれもある。が、それだけに留まるものではないところに、先に言った菊之助のオーソドクシイの非凡さがあるのだと思う。

先に私は、菊之助の演じた二人三役といったが、事実、筋の上では二人であるヴァイオラとセバスチャンは、ヴァイオラがシザーリオになることによって、シザーリオはオリヴィアに愛され、ヴァイオラはオーシーノを愛することになる。ヴァイオラとシザーリオは同一人であって同一人ではない。その、表面上の取り違えという笑劇仕立てが、個人主義という近代思想の申し子の根底を軽やかに洗い流す。人間とはいったい何なのだ、と重く考え込むのではなく、軽く直覚しながら、われわれは舞台の上の夢に酔い、ドタバタのファルスに笑う。『十二夜』とはそういう芝居である。そうした軽味に、菊之助の芸と身体のもつ感覚とがしなやかに反りを合わせている。

将来は知らず、いまの菊之助はおそらく、いわゆるシリアスな役はあまり向かないかもしれない。だがそのことは、歌舞伎俳優として必ずしも弱点ではない。個を通じた深刻よりも、典型を通じた軽みの方が、より深くより普遍として人間の本質を射抜くことがあるのが歌舞伎である。シェイクスピアもそうだろう。菊之助のオーソドクシイとはそういう種類のものである。

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