随談第30回 観劇偶談(その11)

松竹座を見てきた。勘三郎襲名の興行を真夏の大阪でやるというのは、大阪という街にも、勘三郎という役者にも、どちらにもふさわしい。まだ梅雨が明けきらない、真夏というには多少気が早いが、しかし二日滞在した内の一日は、昼頃から晴れ上がって抜けるような夏空だった。松竹座のキャパ、ひと月という興行日数のせいもあり、歌舞伎座の三ヵ月にもまして切符の手に入らない連日であるらしい。

勘三郎にとっても、大阪がいまある自分の原点なのだという。80年代から90年代にかけて九年間連続して中座に出た、そこで自分を見に来てくれるお客をつかんだ。それは自信にも自負にもなっているし、翻って大阪の地に歌舞伎のお客を開拓し、甦らせたことでもある。昭和63年の『四谷怪談』が転機だったという。それまでは、舞台から二階席を見上げるとうっすらとしか客がいなかった、と勘三郎は言う。

その大阪の九年間というものがあって、歌舞伎座八月の納涼歌舞伎があり、コクーン歌舞伎があり、平成中村座があり、ニューヨーク公演があるのだ、というのが勘三郎の認識である。なるほど、そうなのだろうな、と話を聞きながら得心の行く思いがした。自分の力で観客をつかんだのだ、という何ものも否定しがたい実感。それは、芸というものが、結局のところ、演じる者と見る者との関係の上にしか成り立たないのだということを、自分の身体で体得した者の実感であって、その話を聞いて納得するのも、語る勘三郎自身の言葉にそれを実感するからに他ならない。勘三郎の活動ぶりや舞台成果に対してさまざまな見解が生じるのは当然のことだが、この実感を抜きにして勘三郎の存在の有り様はないのである。ということは、そこを見ないで抽象論をいっても意味がないのだ、ということでもある。

勘三郎は『研辰の討たれ』と『沼津』の平作を演じ、更に『宮島のだんまり』の大江広元を演じ、『藤娘』を踊る。『研辰』は大阪の客の方がノリがいいと勘三郎はいう。町人の町としての実感があるからだ、というのは確かかもしれない。少なくとも、舞台が五月の歌舞伎座にもまして粒が立っているのは事実だ。「勘九郎」がこんど変ったことをやるそうだぞ、という初演の時のような物珍しげな感じはもうない。もちろん勘三郎の意欲はだれしも知っているが、もはやそれは「そこにあるもの」として受け容れられている、ということだろう。

成果としては、やはり『沼津』はいい。仁左衛門の十兵衛との釣り合いが、四年前の歌舞伎座の時に比べてはるかにしっくりしている。仁左衛門も、前よりも一段と和事味を出しているのは、こなれてきたからでもあるし、大阪で演じているという意識が、殊更にではなくとも作用しているのかも知れない。『藤娘』は初役である。『道成寺』もそうだったが、いかにも町の娘である。三津五郎が曽祖父七代目以来の『源太』を踊るのと二段返しになっているのが、一層好対照で、うまい出し方だ。

他の人たちでは、『対面』で橋之助の工藤がじつに立派である。染五郎の五郎と勘太郎の十郎も好一対だが、それをぴたりと抑えている重みの具合がいい。

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