随談第31回 俳優偶論(その4 中村時蔵)

『十二夜』の話をもう少し続けたい。菊之助がヴァイオラ=シザーリオとセヴァスチャンをひとりで兼ねたのが、シェイクスピアの設定した趣向を歌舞伎の手法ではじめて実現して見せた好例とすれば、オリヴィアを赤姫として造形して時蔵に配したのは、シェイクスピアを歌舞伎の意匠で装って歌舞伎ならではの効果を挙げた好例といえる。

西洋の姫君を赤姫でということ自体は誰でも思いつく知恵だとしても、それを演じたのが時蔵だったのは、天の配剤というべきである。時蔵はついこの三月に八重垣姫を演じていて、そのどちらをも見ている者には、八重垣姫とオリヴィア=織笛姫と二つの役がダブルイメージとなって一層の効果をもたらすのだが、仮にそれを知らなかったとしても、時蔵の演じる赤姫姿のオリヴィアに、他には求めがたい気品とユーモアを感じ取ったに違いない。

赤姫に求められるのはまず気品だが、同時に赤姫の赤は、恋をする者の情熱の表徴でもある。一途な激しさを一方に秘めつつ、それを気品でくるんだ均衡の上に、赤姫という役柄は成立している。その均衡は、どちらかに多く傾けば表情のない人形姫になるか、あるいは逆に、姫の衣装をまとったただの女になってしまう。しかしその均衡が千にひとつの絶妙の安定を保つとき、たとえば独楽が見事な均衡を得て廻るときほとんど静止して見えるように、理想の赤姫は、激しく燃え、揺れる心の均衡の上に静止して見えるとき、はじめて生気を通わせる。若手の女形が必ずのように演じる役でありながら、しかし姫ほど、むずかしい役はない。

時蔵の八重垣姫は、「奥庭」で白く長い毛のついた諏訪法性の兜を手に、月影の前に立った姿が、気品の中に恋に殉じる者のみが持つ凄艶さをただよわせて圧巻だった。ついこの正月には三津五郎の鳴神を相手に雲の絶間姫を演じたが、気品の中にユーモアを流露させて、幾度も演じ重ねたこの役に少しの慣れも感じさせなかった。雲の絶間姫といえば、四国の金比羅にある金丸座という昔ながらの芝居小屋で時蔵のこの役を見ながら、涙がとまらなくなって困ったという不思議な体験を、私はしたことがある。『鳴神』という芝居を一度でも見たことのある人ならわかるように、この芝居には涙を流して見るようなところはなにもないのである。それにもかかわらず涙がとまらなかったのは、本当に完全なものを見たときの感動がそうさせたのだと、考えるほかはない。

時蔵のオリヴィア姫は、その八重垣姫と同じ姿で登場し、ヴァイオラの変装したシザーリオに恋を抱き、シザーリオのもたらすオーシーノ公爵の求愛をはねつける。あんなにやさしい、可憐な姫が、あんなにもつれなく、つめたい女でもある。それは人間誰でもが持つ、矛盾であり、盾の両面なのだが、八重垣姫のような姿をした時蔵のオリヴィア姫を見ていると、そんなありふれた心の有り様ではなく、人の心の不可思議さ、不可思議さ故のチャームとなって訴えかけてくる。人間って何なのだろう。そんな、深刻に考え込んだらむずかしい問題と、われわれは、軽くこころを遊ばせながら戯れる。それこそは、喜劇『十二夜』の真骨頂でなくてなんだろう。

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