随談第32回 俳優偶論(その5 市川亀治郎)

またまた『十二夜』からのネタだが、それだけ若い役者たちがいきいきと働いたのだから勘弁していただこう。マライアならぬ麻阿役の亀治郎である。

儲け役にはちがいない。この役が活躍しないようでは芝居が寝入ってしまう、働いて当然、という言い方もできないわけではない。しかしこの麻阿という女のチャームは、亀治郎あってのもので、脚本の要求している以上の存在感を実感させているのは疑いない。現にこれまで、新劇でやった普通のシェイクスピア劇としての『十二夜』で、マライアという役にこれほどの魅力も存在感も覚えたことはない。

思い起こしてみれば、もうだいぶ前になるが猿之助が『小栗判官』(スーパー歌舞伎の『オグリ』ではなく、『当世流』の方である)をやったときに、亀治郎が青墓の長者の娘をじつにいきいきとした実感をもって演じたことがあった。こわいもの知らずに育った娘で、はした女に雇った女がじつは照手姫であるとは夢にも知らず権高に振舞っているうち、やがて小栗判官の心が自分ではなくはした女にやつした照手姫にあったことを知る。最後は自分が犠牲になって死ぬのだが、それを亀治郎がやると、説教節という古い昔話の自己犠牲の物語が、自ら主体性を持って、自分を生かすために死を選んだ娘のドラマのように見えた。ここは歌舞伎独特のトリックで、生首、つまり亀治郎自身が切り穴から首を出して、一瞬、カッと目を開くという演出がある。つまり犠牲になって死んでも妄執は生き続けるのだから、思いの強さがもともとある役なのだが、亀治郎だとそれがただのトリックではなく、ある種の普遍性を実感させつつ立ち上がってくる。

亀治郎十傑に入る傑作なのだがちょっと旧聞なので忘れかけていた。役どころは違うが、自己主張のある女という共通項から、今度の麻阿を通じて思い出したのである。そういうなら麻阿、いやマライアだって、演じようによっては、サー・トービーに言われるままに動いているだけの女になってしまう。もちろんそれではちっとも面白い役ではなくなる。

サー・トービーこと洞院鐘道はドタバタ役である。しかしお公家さんだから、ドタバタといっても品はよくなければいけない。洞院役の左団次はさすがに鷹揚に演じてうまいものだ。松緑のやるサー・アンドルーこと安藤英竹が思い切った現代調で演じるのと、双方とからみながらバランスを取るのが亀治郎の役目である。松緑もよくやっているが、受けては返す亀治郎の名捕手ぶりは、ちょっと見以上に苦心があるに違いない。敢闘賞を、と『演劇界』に書いたのだが、技能賞でもいいのかもしれない。

じつは今年に入ってから、私は亀治郎に失望の連続だった。正月の浅草歌舞伎で、『封印切』の忠兵衛を愛之助と、『鏡獅子』を七之助とダブルキャストでやって、予想に反してどちらも相手に名を成さしめてしまった。どちらも技巧では亀治郎の方が上手いのに、がちがちの秀才が完璧主義に凝り固まったみたいで、くすんでしまったのだ。浅草は亀治郎の圧勝と予想した私の見込みはまんまとはずれた。

だが『十二夜』という自由の利く場を与えられて、亀治郎は甦った。こうなったからには、八月の亀治郎の会を目を皿のようにして見よう。

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