随談第36回 観劇偶談(その12)

毎年夏のささやかな楽しみは「東宝現代劇75人の会」の公演である。普段は芸術座などの舞台で脇を固めている人たちが、自分たちの公演を年に一度持つのである。

芸術座の舞台がざっと四〇年、常にあるレベルを維持してきた、あまり目立たないが実は大きな根拠として、この人たちの存在を抜きに考えることはできないだろう。しっかりしたリアリズムを根底にした演技。主役はその時々のスターが入れ替わっても、固める脇は変わらない。芸術座の舞台の信用は、ある意味ではこの人たちが作り、支えてきたのだともいえる。

昨今若い世代にもてはやされる芝居を見ても、つくづく感じるのは、どういう傾向の芝居であろうと、根底を支えるのは、地道なリアリズムなのだということである。ひと頃、糞リアリズムということが言われ、超現実的な内容・感覚の芝居が当り前のようになった。しかしその手の舞台をも見るにつけ、根底を支える地道なものがなければ、結局空疎に陥らざるを得ないという、ごく当り前のことを思うことが多くなっている。

去年の夏、新橋演舞場に久しぶりに松竹新喜劇がかかった。『大阪ぎらい物語』の幕が開いた一瞬、私は息を呑んだ。大正頃の大阪の船場の店先に老舗の手代や丁稚や女中たち、職人や物売り、街の人々がまさしく生きてそこにいる。圧巻だった。松竹新喜劇という集団が持っている底力というものが、まざまざと実感された一瞬だった。しかも以前と違い、彼等は毎月常打ちの公演をしているのではない。普段は個々別々に、さまざまな舞台に分散してかせいでいるのが現状である。それが、いざとなればこれだけの充実感のある舞台を作り出すことができるのだ。まさに、これぞプロフェッショナルである。

いまこれに拮抗できるだけの叩き上げた腕をなんとか持ちこたえている集団といえば、花柳界を舞台にしたときの新派ぐらいのものか。(九月の『京舞』が楽しみだ。)こういう芝居を古くさいだの何だの言うことはたやすいが、それではこれだけの臨場感のある舞台を作れるかといえば、さてどうだろうということなのだ。

もちろん、新派における花柳界、新喜劇における一時代の大阪の市井のような一定の「様式」を持った世界であればこそ、こうしたことが可能であるのは事実だろう。東宝現代劇の場合は、現代という「様式」を失った時代を演じる以上、新派や新喜劇のような独自の世界を作るというわけにはいかない。そこが難しいともいえる。しかし去年の公演で上演した『花咲く港』は、すくなくともこの春新国立劇でのより現代的な感覚の演出による舞台よりも、すくなくとも戯曲の世界を感じさせる臨場感に関する限り、確かな「劇的現実」を作り出していた。

決して無条件に賞賛するのではないが、こうした地道な努力こそ、現代のような演劇界の状況の中で、(あえて古風な言い方をするなら)「地の塩」ともいうべき価値がある。

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