随談第37回 観劇偶談(その13)

>亀治郎の会を見た。東京で開くのは初めてだが、妙なもので京都で開くのとでは大分感じが違う。旅の気分も手伝っているのかもしれないし、あの華やかな女性たちの姿が見えないせいかもしれない。しかしここらで一度、東京でやっておくのはいいことだろう。噂には聞いていたが見るのは今度がはじめてという人は少なくない。

今回は『矢口渡』に『船弁慶』だが、完成度という点ではこんどが随一だろう。型が定まっているものだけに演技に集中しやすかったかもしれないし、いわゆる仁にあった演目だったともいえる。これまで亀治郎が成功している役というのは、何らかの意味で集中力を必要とする役が多い。(限られる、と書こうとして実はちょっと遠慮した。)お舟も知盛もその点で同類である。

この前「俳優偶論」で『小栗判官』の青墓長者の娘のことを書いたが、自分の思いの中で自己完結してしまうという意味ではお舟も同じだ。『鮨屋』のお里と劇としての設定は似ていて、わが家に現れた貴種に一目惚れしてひとり相撲を取るところが同じなので、この『矢口渡』という芝居は出来の悪い『鮨屋』のように言う人もあるが、お里はのちにかなり頭脳プレイを見せるのに対し、お舟はまっしぐらに突き進む点が違う。(それにしても、維盛にしても義峰にしても身勝手といえば身勝手だが、二人とも娘の思いを受け入れてセックスを交わす、いや、情をかけてやるところが貴種たる者のやさしさというものなのである。抱き合って、右手を額のあたりにかざす、あのポーズこそくせものである。)

閑話休題。今度の亀治郎を見て、ホオと思ったのは、そうした一途な思い込みからくる集中力はもちろんだが、それに加えて、いままでになかったふっくらとした華やぎが見えたことである。これがどういうところから生まれたものか。離見の見に通じる何かをつかんだのか、先月の『十二夜』で何か得るところでもあったのか、そこらは想像の域を出ないが、ともあれ、この春頃の芸の痩せた感じが払拭されたのは大いに喜ばしいことである。

『船弁慶』はおそらく期するところあったに違いない。そう思わせる気迫であり、出来だった。知盛もさることながら、感心したのは前ジテの静のたおやかさである。ここにも、集中力だけではない、ある種ゆとりと呼んでさしつかえないものの芽生えが感じられる。よくいう言い方をすれば、いつもより役者が大きく見えた。

今回のもうひとつの収穫は、段四郎が元気を回復して手強く、立派な頓兵衛をみせてくれたことである。頓兵衛が花道を入るときの、蜘蛛手蛸足というのの完全な形というのを私は残念ながらまが見たことがないが、今回蛸足の方はともかく、かなり満足できるものを見ることが出来たのではないか。ともあれ、段四郎の回復はおおいに喜ばしい。

そのほか、亀鶴の六蔵と、門之助が義峰、舟長とも役のツボにはまっているのが快かった。

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