随談第38回 観劇偶談(その14)

歌舞伎座で話題の串田和美版『法界坊』を見た。五年前の平成中村座開場の時以来だが、印象からいうとかなり違って感じられるのが面白い。もちろん手直しや変更もあるが、もしかするとそれ以上に大きいのは歌舞伎座という器のせいかもしれない。

この前は平成中村座というもの自体、こちらも初体験という珍しさやいい意味での戸惑いもあったし、なによりも、見廻土手や待乳山がすぐそこに本当にあるという臨場感が想像以上に大きかった。串田氏がそれをどこまで計算に入れていたかどうかはわからないが、中村座という小屋自体がその周辺という、より大きな芝居小屋の中に入れ子のようにくるまれていた(ということを観客に無意識の内に感じさせる)効果が、じつに大きかったことが今度改めてわかった。

こういうと今度がつまらなかったように聞こえるかもしれないがそんなことはない。ドラマ全体が明確に立ち上がって来たという意味では、今度の方がすぐれているだろう。この前は上に言ったようなことも含め部分が突出し、こちらも充分に全貌を捉えるゆとりがなかったせいもある。

在来版がコンヴェンション(といったって、在来版のあのやり方やあの感性というものは、想像だがおそらく大正以降に出来上がったものだろう。わたしはあそこに戦前という古き良き時代のハイカラ趣味の気配を感じている)のなかに埋没させていた、あるいは、演者観客の共通認識としてさらりと通り過ぎているところを、その都度、あるいは掘り起こし、あるいは引っ掻きだしして突出させ、激辛や激甘のスパイスを利かせる。そのやり方に、反発や悪趣味を覚える人も当然あって不思議はないし、百発百中というわけにはいかないのも当然だ。掛け捨てのものもあるだろうし、こののち定着してゆくものもあるだろう。結局のところはそれは観客がきめることになるわけだが、いまはむしろ、それを作ってゆく過程そのものが大きな魅力となって、客席に反響しているのが、その一隅に座っていて感じられる。自分もいまそういう現場に立ち会っているという臨場感。それこそが一番の魅力なのだ。

批評というとどうしても、あそこがいい、ここがよくないという風に、スタチックに捉えてしまうことになりやすい。こまかいダメ出しならそれでもいいが、そういう批評に仕方では、客席で観客が爆笑したりハッとしたりする、そのものを捉えることは出来ない。もちろんそれを文字で客観的に書き取ることは不可能だが、しかしそこに目を向けなければ、そこを掬い取ろうとしなければ、批評の方が負けていることになる。

舞台の上に、むかしの劇場にあった「羅漢台」という観覧席を作り人形(と見せて生身の人間をもぐりこませるといトリックにはまんまと一杯喰った。人形にしては妙に実在感があるなと不審には思っていたのだが、まさかそれ以上は気がつかなかった)を並べたり、回り舞台を敢えて使わなかったり、「新劇人」(という言い方は嫌味かもしれないが、この際許してもらおう)らしい工夫とか、物思うネタはいろいろあるが、それも含めて、いろいろ刺激的な舞台ではあった。

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