随談第566回 綴じ目の弁

アレよという間に歳末となってしまった。今年のページはこれで閉じることにしよう。

前々回の題を「訃報&訃報」として北の湖や原節子のことを書いたと思ったら、それからわずかの間に野坂昭如さんなど幾つもの訃報を聞くことになった。「戦後」という時代が終わろうとしていることを思わざるを得ないが、(『火垂るの墓』のあの餓死する幼い妹が、たぶん私と同年ぐらいであろう)、死の翳は次第に裾を広げて、私にとっては趣味以上の趣味ともいえる連句を接点として30年来の同年の知己であった翻訳家の坂口玲子さんの場合もそうであるようにように、至近弾がわが身の近辺にもしきりに落ちるようになったのも、この二、三年来のことである。

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数年来の懸案であった『東横歌舞伎の時代』をようやくこの歳末ぎりぎりに滑り込む形で出版することが出来たのが、「私的」な意味での今年のトップニュースということになる。昭和29年の1954年12月から昭和46年の1971年1月までの16年間、いまの東急デパート渋谷店、当時の名称で東横百貨店の9階にあった東横ホールという中劇場で行われた歌舞伎公演の年代記だが、こうした形で、戦後という「時代」を切り取って書いてみたいという思いが根底にある。完全に「私的」な思いだけでエッセイのような形で書ければ本当はよかったのだが、そういうわけにも行かなかったのは、やはり「調べて書く」という作業を伴わざるを得なかったからだ。資料としては、往時の『演劇界』と、俗に「筋書」といって場内で売っている公演ごとのパンフレットとが根本資料、それに「記憶」という「血液」が潤滑油ということになる。この「潤滑油」がもっと多量であったなら、と思うものの、こればかりは今更、どうしようもない。

ともあれ思い立ってから7、8年は経っている。(正確に言えば、翻訳家である畏友池央耿氏に勧められたのがきっかけだった。池氏は、実は東横の舞台は私などよりよほど初期の頃から見ている、隠れた歌舞伎通である)。資料としての、手許に欠けた分のパンフレット集めは木挽堂書店の小林順一さんに多くを負うことになったが、雑誌と違って「筋書」というものは古書店では扱わないのが普通だから、「ご観劇の記念に」お求めくださいと場内でアナウンスしているあの手の刊行物は、「お求めになった」ご当人が、もういらないやと手放したり、あるいは亡くなった時に、闇へ消えてしまう運命にある。実際に書き出したのが2011年秋、一旦書き終えたのが昨14年3月。しかし26万字を超え、400字詰原稿用紙で650枚を超えるという分量では、買ってくれるのは図書館ぐらいなものという値段になってしまうというので、約3分の2に減らすことになり、そのためには事実上、全面的に見直し、構成も変え手直しもして、書き直すのに9カ月かかって、再度の完成がちょうど一年前の昨年末ぎりぎり、それから後は出版社側の作業に移って、掲載写真の肖像権の問題やら何やかや、結局この歳末に滑り込むということになった。版元である雄山閣宮田哲男氏の忍耐力の賜物である。定価3000円+税、読んでいただけたなら心から感謝申し上げたい。

それにしても、この前出した『歌舞伎百年百話』から明けて9年も経ってしまったのには驚かざるを得ない。実はその間、2冊分、書いているのだが、出版ということにはならずにいる。ひとつは『演劇界』に2010年から翌年にかけ18回連載した執筆者の列伝『演劇界人物誌』、もうひとつが、このブログに昨年いっぱい断続的に連載した『勘三郎随想・勘三郎48文字』だが、更にこの他に、澤村田之助丈の自伝『澤村田之助むかし語り・回想の昭和歌舞伎』と、中学校以来の友人でドイツ語教師をしながら歌舞伎の劇評を『演劇界』などに長いこと書いていた故佐藤俊一郎君の遺稿集『今日は志ん朝あしたはショパン』の二冊を、協力者はあってのことだが、二冊の著作の編集をしたり、怠けていた覚えはまるでないのだが・・・

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春からこのブログに連載を始めた「BC級映画名鑑」の第一章「映画の中のプロ野球」は前回でお終いということにしたばかりだが、たまたまその後、日本映画チャンネルでテレビ初放映という触れ込みの昭和31年新東宝映画『天国はどこだ』を見ていたら、思いがけない場面にぶつかった。場所の特定はしていないが海抜〇メートル地帯辺りと思しい環境劣悪の地域に志願して赴任した保健所の医師(を演じている沼田陽一を覚えている人も少なくなってしまったろうが、骨っぽい好青年役で好感のもてる好俳優だった)が、地域の少年たちの野球チームのために、学校の後輩だという縁で、何と国鉄スワローズの金田正一選手と町田行彦選手に指導に来てもらうというのだ。弱小球団だった当時の国鉄の投打のスター選手の特別出演というわけである。津島恵子演じる保育園の先生に、タクシーを降り立った金田が声を掛けて道を訊く。その後、ユニホーム姿になって金田が投げる球を町田が打つという、それだけのシーンだが、正直、そもそも私はこの映画の存在すら覚えがなかったぐらいだから、こんなところに若き日の金田や町田が出ていようとは夢にも知らなかった。意外な記録として、書いておくことにしよう。金田は今なお知らぬ者もない大選手だが、町田を知る人はいまでは少なくなってしまったろう。初期のスワローズ生え抜きの強打者で、なかなかの好選手だった。この映画の前年の昭和30年度のセ・リーグの本塁打王になっているから、ちょうど人気の盛りだったことになる。

映画自体は、松林宗恵監督若き日の良心的な社会派作品の力作で、なかなか見せる。津島恵子と思い合いながら暴力団員を殺して前科者となった青年が木村功という、主役の三人が三人、いかにもという配役だが、懐かしさも手伝って予期せぬ収穫だった。昭和31年と言えば、新東宝がそれまでの文芸物や青春物が主体の良識派路線を変更して間もない時期だが、こういう作品も作っていたのだ。

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ついでに言うと、NHKのBSで小津の『秋刀魚の味』をやっていたので久しぶりに見たら、中村伸郎扮する、例によっていささかシニカルな人物が、笠智衆と北龍二の中学時代以来の友人に、昔の恩師のために一席設ける計画があるから付き合えといわれて、大洋・阪神戦を見に行く予定を棒に振ることして店に行くと、その試合をテレビで放送中で、大洋の4番打者桑田が打席に入っている、という場面があるのを知った。正確に言えば、忘れていたのだが、もちろんこの桑田は、後の巨人の投手の桑田真澄ではなく、三原が大洋の監督時代の長距離砲として鳴らした桑田武である。阪神の投手はバッキーが投げているのも、いかにも昭和37年という感じだ。昭和37年というのが、ここでは動かせない意味があるのであって、巨人の監督が水原から川上に変って、まだ川上体制が確立していないこの時期、大洋・阪神戦というのが、大人の野球ファンの見るものだったのである。例の「巨人大鵬卵焼き」というフレーズが言いはやされたのもちょうどこの頃のことで、それを裏返すと大洋・阪神戦ということになるのだ。

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最後に、かつてこの欄で恒例としてやっていた「若手役者年間賞」を歳末特別付録 として久しぶりに復活してみよう。

◆トリプルスリー 菊之助 

・知盛(盗塁=あれよという間に二盗・三盗・本盗をたてつづけに決めた。いや、まさかのランニングホームランというべきか? 但し、旅では魚屋宗五郎までしたそうだが、宗五郎の肌ぬぎと弁天小僧の肌脱ぎは意味が違う筈。聡明な菊之助がそれを知らない筈はないのだが・・・?

・信夫(本塁打=振袖を着た女房役という味な役で若女形としての本領発揮。再演の玉手御前は、悪くはなかったが初演の鮮烈さに代る「何か」がいまひとつ明確に見えずフェンス越えとは行かなかった。)

・敦盛&小次郎、犬塚信乃(打率3割=若衆方としての稟質の純度と高さは抜きん出ていた)

◆長打率 七之助(お三輪=平成中村座では「御殿」、歌舞伎座では「杉酒屋」「道行」で合わせて一本。いや柔道の話ではありません。お父さんを亡くしてこの方の長足の成長ぶり。雪姫、おちくぼの君等々、長打連発。

◆打点王 染五郎(『四谷怪談』の5役、豆四郎、実盛と、打撃に幅が出来、若き4番打者としての風格(のようなもの)を思わせた。但し富樫は、喉を絞った発声などやや元の木阿弥の感あり、新大関昇進はもう一場所、見送りか。(アレ? いつの間にか相撲の話になっていた!)

◆特別賞 尾上右近(「研の会」で踊った『鏡獅子』。打球は遥か場外へ消えた。「諸君、脱帽だ。天才が現われた」と叫んだという故事は、誰が誰のことを言ったのでしたっけ?)

◆敢闘賞 巳之助(棒しばり、芋掘長者=悲しみに耐えてよく頑張った!感動した!)

◆びっくりポン賞 隼人(『おちくぼ物語』の左近少将=あれは誰だろう?と筋書の配役表を見直させた。)

この他にも好成績・好舞台は多々あったが、賞の数はあまり多くない方が値打ちがある。またの機会ということにしよう。

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このブログも、まず本年はこれ切り。良い年をお迎えください。

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