随談第48回 観劇偶談(その20)

新国立劇場で唐十郎の『盲導犬』と『黒いチューリップ』の二日にわたる二本立てを見ながら、つくづく思ったのは「時」ということである。もともと唐は「時」にこだわる作者である。時の状況を作り出すために、舞台の上の時間をしきりに動かす。めまぐるしく「あの時」になったり「この時」になったりする間に、それぞれの「時」を語る言葉が発射される。

『盲導犬』では渡邉紳一郎という固有名詞がひょっこり飛び出した。「なんですか、あれ」と帰りがけ、電車を待つ間に、日経新聞の河野孝さんたちに訊ねられた。つまり(私に比べれば)若い(?)世代の人たちは、ラジオの「話の泉」、テレビの「私の秘密」という、古き良きNHKを代表する全国的人気番組の常連出演者中のトップであった博識の文化人(つまり雑学の大家である)をご存知ないわけである。一方、私と同年の唐十郎にとっては、ある特定の「時」を現出させたり象徴させたりするには格好の固有名詞であったわけだ。渡邉紳一郎は一例に過ぎない。その手の固有名詞、普通名詞、大道具小道具等々、あらゆる仕掛けに満ちている、というより、それらによって成り立っている。とりわけ『盲導犬』は、70年代のイメージだけで構成されているようなものだから、それに対する記憶やら感覚がないと、喚起されるものが随分薄まってしまうのではあるまいか?

『黒いチューリップ』について、パンフレットの演出の中野敦之との対談の中で、唐自身が、この芝居は東宝現代劇みたいな平明な書き方をしてみたい衝動があったと語っているのを読んで、おもわず声を上げかかって抑えるのに苦労した。つまり、帰りの電車の中で読んでいたからだが、なぜ声を上げかかったかというと、芝居を見ながら、これを東宝現代劇みたいな演出の芝居にしてみたらどうだろうと、しきりに考えていたからである。むしろその方が、作者の訴えようとしたところはすっきりわか(ってしま)ったのではあるまいか、という気もする。

今度の演出も出演者も、みな若い「唐ゼミ」の人たちである。かれらの熱心さと唐戯曲への思い入れはよくわかる。好感を抱かざるを得ないまでに。だからこれは批判でも皮肉でもなしに言うのだが、つまり「渡邉紳一郎」的要素をほとんど(もしかしたら皆無に近いほどに)持たない彼らの演じるところを見ていると、何故か私は、あ、これは歌舞伎だ、と思ったのだ。歌舞伎は、徳川時代を知らない現代人である現代の役者が、歌舞伎のコンヴェンションを身に付けることによって歌舞伎的世界を舞台の上に作り上げ、それによって成り立っている。根底にはリアリズムがあるのだが、コンヴェンション化したところで、それは一種抽象化され、象徴化されている。だから、国立劇場の研修を終えたばかりの人でも、ともかくも「歌舞伎」を演じることが可能なのである。(歌舞伎のコンヴェンションの中にも、もし徳川時代の人間がタイムスリップして歌舞伎座を覗いたなら、われわれの気がつかない江戸時代版「渡邉紳一郎」的なものを、そこここに発見するかもしれない。)

それにつけても、やはり時には、こういう芝居も見てみるものである。わたしにとっては、いろいろな発見があって、その意味でも面白い二日間であった。

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