随談第52回 観劇偶談(その22)

御園座の勘三郎襲名興行を日帰りで見てきてその晩にこれを書いている。

弁天小僧がすばらしい。「浜松屋」で知らざあ言って聞かせやしょう、にかかる呼吸(いき)が、いままで誰の弁天でも見たこともない鮮やかさだ。先代でも梅幸でもこうはやらなかった。つまりこれはツラネではないのだという、教えとしては聞いていても、実際にこれまでに見た(聞いた、というべきか)代表的な弁天役者の誰のをみても、なるほどこうなのかと得心したことはなかった。つまり番頭たちとあれこれやりとりしていて、ナニ、わっちの名を知らねえ? と言ってそのままの呼吸で「知らざあ言って聞かせやしょう」とかかる。その間のよさというものはない。それでいて、たっぷり聞かせるのである。六代目菊五郎を私は見たことがないが、こうだったのかなという気がした。

六代目と同じ(だったとして)にやることにどんな意味があるのか? もちろん、同じであればいいというのではない。しかし、これは歴然と違うのだ。弁天小僧が活けるものとしてそこに躍動するのである。

とかく、さあここだ、という風になって、知らざあ言って、と間をおくと、大向こうから掛け声がかかる。と、聞かせやしょう、と時代っぽく張って言う例が多い。いかにも「弁天小僧」というお芝居を見せている、という感じになる。それはそれで、出来上がったお芝居を見る楽しさはあるのも事実だ。当代の菊五郎のような爛熟の美がそこに加われば、それもまた、よき見ものであるのも確かだ。

しかも今度のように『青砥稿花紅彩画』として通しで出すと、序幕が極彩色の時代狂言風になるから、その後に浜松屋のような世話の世界になると、見る者は夢と現実が交錯する白昼夢を見ているような幻覚の虜になる。そこがこの狂言を通しで出す面白さなのだが、そこへこういう、ごく自然な呼吸で弁天小僧を躍動させると、かえってその幻覚が倍加するのが今度見て知った発見だった。まさに時代に世話あり世話に時代あり、その交錯する面白さが今度一倍冴えていたのは、まずここに原因がある。

もうひとつ気がついたのは、弁天の勘三郎も南郷力丸の三津五郎も、ふたりとも以前に比べセリフのトーンが高くなっていることである。(またこのふたりのやりとりの呼吸のいいこと!)打ち合わせてそうしているのか、おのずからそうなったのか判らないが、印象が若くなる。つまり勘三郎も三津五郎も、五十歳になって演じる弁天と南郷が若くなったのだ。テンポがいいからでもあるが、ふたりの声のトーンの高さが印象的だ。仁左衛門の右衛門の駄右衛門はことに「蔵前」がいい。

これ以外にも、勘太郎・七之助の子獅子との三人連獅子の毛振りの揃い方、仁左衛門の河内山と三津五郎の松江候の応酬の呼吸のよさ、『お国と五平』の三津五郎、芝雀、橋之助三人の公演とか、襲名興行としてやや小ぶりの陣容ながら、適材適所で実際には手薄の印象は与えない。芝翫でも段四郎でも一役というのは、贅沢というかもったいないというべきか。

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