随談第53回 観劇偶談(その23)

事後になってしまったが、他に書く場がないという意味からも、先週見た前進座の『梅雨小袖昔八丈』のことを書いておきたい。東京ではこれが再演ということになるが、一段と「前進座らしく」なっているというのが、まず第一の印象であり、結論である。それだけ、松竹歌舞伎の『髪結新三』から離れた、独自の黙阿弥劇を作っているといえる。

初演のときはちょうど團菊祭で菊五郎がやっているのと競演の形だったが、今度はこの春に勘三郎が襲名披露で出したばかりというタイミングである。まさか図ってそうしたわけではなかろうが、おのずから、その対照があざやかに見てとれるのが、図らずももうひとつの興味となる。

場割りからいえば、松竹バージョンの定番に、第三幕として弥太五郎源七の新三殺しから居酒屋の三右衛門夫婦に諭される件を加えただけで、前の二幕はほぼ変らない。つまり、いつもの「閻魔堂橋」で新三と源七の立ち回りで終りになるのが、実はあそこで新三が殺されるのだというところから、源七の物語が始まるのである。三幕目の主役は源七であり、芝居はそれまでとはトーンも変る。

しかしそれに伴うように、前の二幕も、梅雀の演じる新三も、舞台全体の色合いも感触も、菊五郎や勘三郎が演じるのとはかなり異質であり、そこに前進座としての主張もあれば、存在理由も価値もある。つまり梅雀の新三は、菊五郎や勘三郎ほど洗練された江戸っ子ではない。とはいえ梅雀とて、啖呵は切れるし江戸っ子らしいセリフはあざやかだし、身のこなしも切れがいい。つまり見事に江戸っ子である。それにもかかわらず、松竹歌舞伎に対する前進座歌舞伎に見事になっている。そこが面白いし、またすばらしい。

いうまでもなく、新三はじつは「上総無宿」である。つまり田舎から上京(ではないが)してきたおにいちゃんである。しかし回りの髪結いという表の顔とばくち打ちという裏の顔とふたつを持ち、それぞれの顔がそれぞれの世界できくようになるところまでになっている。現代の東京で、新宿やなにかでそれなりに顔のきくお兄ちゃんたちが、つい何年か前までは地方の少年であったのと、そのままつながっているような、言い換えれば新三という男の戸籍調べが舞台にあらわれているような、そういう新三を梅雀は演じている。そこがじつにおもしろいし、前進座の歌舞伎が現代の歌舞伎界にもつユニークな存在意義をみとめさせる意味をもっていることを、はっきり書いておきたい。

梅之助の家主との、例の「鰹は半分もらっていくよ」のやりとりも、前進座版として見事である。初鰹売りは靖之介だったが、これもなかなかのものだった。車力の善八の藤川矢之輔は誤演はしていないが、仁が違うのでおもしろみが一通りになってしまうのは、むしろやむをえない。しかしもう一役の居酒屋の三右衛門の好演で取り返す。

弥太五郎源七は圭史で、新三に鼻をあかされるところも、殺しから三右衛門夫婦に諭されるところもなかなかいいが、顔のつくりが歌舞伎から普通の時代劇にはみだしているようなのが、すこし疑問に感じた。おそらく圭史には考えがあってしていることだろうが、凝っては思案にあたわずということもある。中嶋宏幸の勝奴も敢闘賞ものだ。

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