随談第62回 野球・相撲噺(その5)

前回北葉山のうっちゃりの話をしたが、うっちゃりではもう一つ忘れがたいうっちゃりがある。栃錦が関脇で初優勝した昭和27年秋場所というのは、この場所から四本柱というものがなくなって、現在のように天井から屋根を吊るし、白虎・青龍・玄武・朱雀の四色の房を下げるようになったという場所だった。(そういえば両国の国技館を作ったのは明治時代だし、相撲界というのは機械力を使うことには早くから積極的なところがある。写真判定を早々と取り入れたのにしても。)

さてこの場所、栃錦は鏡里に負けただけの14勝1敗で初優勝して大関に昇進したのだが、その中日8日目と14日目が白眉だった。この日の相手は横綱東富士で、怒涛の寄り身という異名がついていた東富士の立合い一気の寄りに土俵際につまった栃錦がうっちゃって同体で落ちた。軍配は東富士。だが出羽の海検査長(という制度が当時はあって理事が交代でつとめることになっていた)が自ら物言いを付けて取り直し。また同じような展開になって今度はさっきと反対側にうっちゃって、こんどは文句なく栃錦の勝ちとなった。横綱を右と左にうっちゃり分けたところが、さすがは名人栃錦というわけだ。

14日目の方は、今度は大関の吉葉山が相手で、前夜高熱を発した栃錦が鮮やかな二枚蹴りで切って落としたのだから、こっちの方がいっそう派手で(吉葉山は四十貫、栃錦は二十五貫である)、そのころ西巣鴨に越して間もなかった小学生の私は、木造二階建てで寄棟作りの屋根がついていた当時の池袋の西武デパートの前の新聞売り場で、親に頼んで、栃錦の二枚蹴りに吉葉山がもんどり打って崩れ落ちる写真が一面を飾っている日刊スポーツを買ってもらった。(だがなんとしたことか、この新聞はいま手元に残っていない。)

栃錦はそれまで、技能賞は毎場所指定席のように取って技能派の名はほしいままにしていたが、優勝だの大関だのとは縁のない存在だと思われていたのだった。今場所、朝青龍が入幕以後の決まり手の種類が栃錦の記録に迫っているという記事で、栃錦が40手だったということを知った。「たすき反り」という珍しい手で6尺9寸5分という長身で有名だった不動岩という力士に勝った写真が、当時よくグラビアに載っていたが、「反り技」というものをとんと見かけなくなって久しい。二枚蹴りにしても、めったに見かけない。

基本的に四つに組んで揉み合うということが最近の相撲に少なくなったことが原因だろうが、これは決り手ではないが、「手四つ」といって、突き合いながら有利な組み手に組もうとして、互いに手と手を組み合って睨み合う形になるのも、見なくなった。前に琴ケ浜の内掛けのことを書いたときにも言ったが、相手に廻しを与えまいと腰を振ったり、ということも見なくなった。(「押し」こそ相撲の基本とはいえ、押し合っていてバッタリ手を突くというのが多すぎる。ああいう相撲ばかり見せられては人気がなくなるのも無理もないか、という気もしてくる。)

琴ケ浜に限らず、羽島山という「櫓投げ」の名手だとか、もろ差しになる名人芸だけでも名物になった信夫山や鶴ヶ峰とか、地位は関脇どまりでも名人上手が、寛永御前試合みたいにぞろぞろ出てきた往時の大相撲こそ、まさしくプロフェッショナルの世界だった。

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