随談第64回 観劇偶談(その25)

新国立劇場でブレヒトの『母・肝っ玉とその子供たち』を見ながら思いついた閑話三題。ひとつは大竹しのぶの絶叫につぐ絶叫である。20分の幕間をはさんで3時間、絶叫しつつ喋り絶叫しつつ歌うというのは、そのエネルギーとその持続力には感心するが、ひどく疲れる。それがブレヒトだといってしまえばそれまでだが、テンションの高さがそのまま単調に通じてしまうところに一考の余地がある。世評高く、いや世評だけでなく大きな賞まで貰ったのだから、専門家も良しと見た、いや聞いたわけだが、去年の『喪服の似合うエレクトラ』のときにも同じことを思ったものだった。

両隣の席の紳士がふたりながらにしばしば船を漕いでいたかに思えるのは、高声の絶叫が子守唄に転じたか? そうだとすれば、「急」ばかりで「緩」のない絶叫は、なまじテンションが高いだけに単調に通じるという私の感想と符合するのかもしれない。(じつは私も何度かうつらとした。)いかに時速150キロの快速球でも、そればかり投げ続けたのでは打ち込まれるのが道理というものだ。尤も『エレクトラ』もそうだったところを見ると、もしかしたら、これは大竹しのぶよりも演出の栗山民也の好みなのかもしれない。

十月の国立劇場の『鳥羽恋塚』ではめまぐるしい「実ハ」「実ハ」の連続が筋の展開を追う努力を断念させて睡魔の虜になったひとを多く見かけたが(実はあの折も私も何度かうつらとした)、今度はおなじテンションの持続がかどの緊張を強いたために、おなじく睡魔魅入られたのだと見える。

大竹しのぶのために弁護しておくと、セリフ自体はじつに明晰なのである。あれだけ明晰なせりふを3時間喋り続けるというのは、たいしたことといわねばならない。声も本来なかなかチャーミングな声なのだ。

もうひとつは、カーテンコールでの大竹しのぶのお辞儀である。もっとも、こちらの方はいいの悪いのという話ではない。見た日には三度繰り返したが、ペコリという感じのお辞儀が大竹しのぶ論でもするときのネタになりはしないかと思って興味深かったのである。

一度目は役の興奮そのままでペコリとやったように見えた。二度目は、すこしくつろぎが見えてきたので、アヤをつけるかなと思ったら、まったく同じペコリだったので、おやおやと思った。三度目は、ペコリの前に、役の上ではなく大竹しのぶの顔になってにっこりしたので、こんどは女優大竹自身に戻って洗練されたお辞儀を見せるかと思ったら、やはり前と同じペコリだったので、ふーんと思ったという、ただそれだけのおハナシなわけだが、ブレヒト劇をマジメに研究している人などにはアンコールのお辞儀の仕方などどうでもよろしい話だろうが、私などには、そういうところがなかなか興味深いのである。

第三は、こんどは大竹ではなく、従軍牧師をやった役者(山崎一という、この人、なかなか好演だったと思う)の後頭部である。絶壁頭の具合が坊さんらしくてなかなか結構だった。『十六夜清心』などでも、清心の役者が坊主らしくないと、芸なわるくなくとも妙にきになるもので、その点でもやはり十一代目團十郎と勘弥の絶壁頭が一番坊さんらしかった。山崎一を見ながら、この人、清心をさせるといいかな、と思ったりした。

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