随談第65回 観劇偶談(その26)

『母・肝っ玉とその子供たち』についてもう一言。

今度の舞台をみて考えるかぎり、肝っ玉という仇名のついたあの女性は、以前「肝っ玉母さん」という訳がついていたようなイメージとは違って、女であることをやめてしまったような猛烈ばあさんではなく、まだ充分に女であり、男をそそる年配でありキャラクターなのだろう。(だからこそ大竹しのぶという配役があり得たわけだ。)

そういう女が、やだね、戦争ってやつはと言いつつも、戦争にしがみつき戦争に食わせてもらいながら生きてゆく。戦争を利用してもいるのだが、自分では利用しているつもりでも、結局のところは利用される形でしか、庶民・人民というものは国家とか軍とかいうものと関わることはできないというのが、ブレヒトという作家のアイロニイであり、それを受けとめる日本人観客のニヒリズムというものであり、その日本人的ニヒリズムというのは煎じ詰めればあの「無常観」から来るのだというのが私の考えである。日本人におけるブレヒト受容の問題、とかなんとか言っている人に考えてもらいたい。

ところでここでブレヒト論をやるわけではなくて、話はこないだの続きの大竹しのぶの絶叫のことである。

ブレヒトなどを見る人にはインテリが多いから、黙っていてもいろいろ深読みをしてくれるからいいようなものなのだが、肝っ玉とよばれるあの女の心の襞がどれだけ彫り込まれ、こちらに染み入ってくるか、やはり決め手はそれだろう。とすれば、やはりあの絶叫に次ぐ絶叫は、その襞の上を吹きすさむことに役立ちはしても、襞の深さにこちらを気づかせ、立ち止まらせるには、かえって逆効果ではなかったろうか。

料理人と僧侶というふたりの男が彼女につきまとって離れないのは、肝っ玉に男の気をそそるだけの「女」があるからだろう。もちろん大竹個人のチャームはある。(少なくとも私は彼女がきらいではないから、そういう意味では「女」は感じないわけではない。)しかし彼女の演じる肝っ玉に「女」はあっただろうか。むしろ彼女は「肝っ玉ということ」を演じるのに熱心だったのではないか。

娘が突如狂ったように太鼓を連打しはじめ、ついに銃殺される。その後の乾いた嘆きはよかった。あの場ではじめてしっくり見ることができた。つまりあそこは、迷うことなく「嘆く」ことができるからか。しかしそうなると改めて惜しくなるのが、その前の料理人の「くどき」とのやりとりである。抒情に走るまいとするのは分かる。料理人を演じる福井貴一の問題もある。それこそ感覚本位に見るなら、僧侶の山崎一に比べ、セックスアピールが充分でない。もっともこれは山崎一をほめればいいことであって、返す刀で佐野次郎衛門が罪のない女中まで籠切ってしまうようなものかもしれず、福井には気の毒をしたともいえる。

要するに、全力投球とはいってもやはり緩急は必要だ、というごく平凡なお話である。それでこそ、肝っ玉とよばれる女の心の振幅の全体が、われわれの中でもっと躍動するに違いない。

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