随談第569回 BC級映画名鑑・第2章「BC級名画の中の大女優」第1回(通算第9回)原節子『東京の恋人』と高峰秀子『朝の波紋』

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前回、といっても昨年末のことだが、第565回の末尾に「BC級映画名鑑」の第2章として新年から「大女優のBC級名画」(大女優以前の大女優)を開始と予告しておいたが、表題を少々変更、「BC級名画の中の大女優」としてその第一回を始めよう。まずは原節子、昭和27年7月15日封切りの東宝作品千葉泰樹監督の『東京の恋人』と、高峰秀子主演昭和27年5月1日封切りの新東宝作品『朝の波紋』である。

じつはこの作品については、このブログの第442回に「映像再会」というタイトルで紹介したことがある。私にとっては、同じ年の5月封切りの新東宝、五所平之助監督高峰秀子主演の『朝の波紋』と並んで、こよなくなつかしい映画なのだ。『朝の波紋』については次回に詳しく語るとしても、内容的にも、両者は切り離すわけに行かない。つまり昭和27年春から夏にかけて作られたというそのことが、戦後史と深く関わっているからだ。

昭和27年、1952年という年は日本の戦後史を語る際にひとつのメルクマールとなる年であって、即ちこの年の4月28日、前年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約が発効し、日本はGHQによる占領状態から解放され進駐軍が帰って行くことになる。吉田茂首相がマッカーサーに向ってGHQとは何の略語だと訊ね、怪訝な顔をされると、Go Home Quicklyという意味かと思っていたと言ったという、(いや、Quietlyと言ったのだという説もあった)どこかに誰か作者がいそうな話が伝わっているが、私はこのとき小学校6年生で、しかも、もちろん偶然だがこの講和条約発効の日に、中野区の鷺ノ宮から豊島区の西巣鴨に引っ越し、転校をするという、子供にとっては重大事を体験したので、この前後のことはひと際、記憶に強く焼き付けられることになった。米軍独特のいぶしたようなグリーンに塗った進駐軍専用バスだとか、国電の車両に白だすきをかけたような進駐軍専用車(かの小津安二郎の『晩春』で原節子と笠智衆の父子が北鎌倉の駅から東京へ横須賀線に乗って出かける場面が何度かあるのが、その実例を見る、今となっては最も簡単な方法であろう)などが、この日以降見かけなくなってゆくのを、子供心に何がしかの変化のシンボルのように眺めたのを思い出す。

西巣鴨と言っても、現在は上池袋一丁目と言っている、山手線の大塚と池袋の中間点にあって、一面の焼け野ケ原だったところに街が再興しつつある、といった感じで、地面を掘ると、意地悪爺さん宅の裏の畑みたいに瓦礫が続々出てきてたちまち山になった。つまり(後で知ると昭和20年4月のことであったらしい)この地域一帯、相当の広範囲にわたって大規模な空襲にあった土地なのだった。郊外の住宅地であった前の家と違い、焼け跡に俄かにできた町場なので隣近所の物音が近い。ワッショイワッショイ、ソーレソレソレお祭りだー、と美空ひばりの『お祭りマンボ』が向かいの家のラジオからにぎやかに聞こえてきたのが、切り離すことのできない原風景となって焼き付いている。戦後丸七年経ってなお、傷跡は生々しかった。

中でもひと際目立つのが、皆が「癌研」と呼んでいた、築地の癌研究所の分院が戦前からこの土地にあったのが爆撃に逢って鉄筋コンクリートの外壁だけを残して中が丸焼けになった巨大な建造物の残骸で、急坂の斜面に立っていたので、高架線になっている大塚駅のプラットホームからでもそそり立つ姿が遠望できた。建物自体が印象的な形態を成しており、中央に円柱形の塔があるのが残骸とはいえ優美で、やがて子供たちは「癌研大和」と呼び始める。講和条約発効とともに様子見しつつ始まった「復古調」(という言葉が当時出来た)の流れに乗って、翌28年になると『戦艦大和』などといった映画が作られるようになったからだが、確かに、その姿は軍艦の一種壮麗な美を思わせるものがあった。同じクラスのTさんというなかなか勉強のよくできる女子生徒は、その「癌研」の廃墟の一隅に住まいがあって、そこから通学してくるのだった。

脱線を重ねることになるが、私の転校前に通っていた学校は中野区立の「大和(やまと)小学校」といったが、(当時は持ち物に氏名だけでなく学校名から書くのが習慣だった)転校先の級友から「これ、ダイワ小学校っていうの?」と訊かれたのをはっきり覚えている。即ち、昭和28年6月15日封切の新東宝作品『戦艦大和』が世に出るまでは、当時大方の小学生は「大和」と書いて「やまと」と読むことを知らなかったのである。その転校先の小学校では、校庭の片隅にある鉄棒のひとつが、ぐんにゃりと曲ったままだった。空襲の際の業火で曲ってしまったのが、七年経ってもそのままになっていたのだ。校舎も、廃材で作ったと思しい粗末な木造校舎で、空襲に会わずに済んだ転校前の学校がクリーム色のモルタル造りに赤いスレート瓦を乗せたスマートで明るい校舎だったのに比べ、子供心にも鬱陶しく感じられ、馴染むのに時間がかかった。

『朝の波紋』と『東京の恋人』は、まさにそういう年に制作されたプログラム・ピクチャー中の佳作である。片や5月1日、片や7月15日に封切られている。『朝の波紋』の封切りがメーデー事件の当日、『東京の恋人』の封切りの四日後に、日本が戦後初参加するヘルシンキ・オリンピックが開幕する。戦後史年表に太字で書かれるような出来事を引き合いに出すのに、ネタには事欠かない。

『朝の波紋』を見たのは、池袋日勝といった、池袋駅東口の明治通りのつけ根辺り、現在家電量販店の巨大な店舗が立ち並んでいる一隅に当たる位置にあった映画館で、引っ越してまだ数日後、初の日曜日であったかもしれない。すぐ前の空き地に、今度ここに三越が建つらしいよという会話を交わしたのを覚えている。(その通り、やがて三越池袋店が建つことになる。)道路を渡った駅側に木造二階建てで、切妻屋根にスレート瓦を乗せたのが西武デパートだった。今に続く西武百貨店の原型である。線路の下をくぐって西口側に出るには、長身のアメリカ兵なら頭がつかえてしまいそうな、粉塵濛々としたトンネルを通らなければならなかった。

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『朝の波紋』も『東京の恋人』も、いわゆる名画列伝に記録されて誰もが知るというものではないが、前者は高峰秀子に池部良、後者は原節子に三船敏郎という、当時すでに人気絶頂だったスター同士の共演で、五所平之助に千葉泰樹というベテラン監督の手で当時のファンを十分に満足させた作品である。音に聞こえた巨匠監督の名画もさることながら、当時当り前のように作られ当り前のように受け入れられていたこうした作品の方が、今の私には興味深くも面白い。そこに映し出されるスターから脇役端役に至るまでの俳優たちの誰彼れ、さまざまな風景や情景の語りかけてくるものが、記憶の底を浚い出してくれる。前者では隅田川のボートレースとか、後者では勝鬨橋の開閉とか、それだけでも時代を語る場面が重要なモチーフとして使われているが、共通するのは、どちらにも東京の旧市内の、それもかなり高級な住宅地と知れる焼け跡が丹念に描き出されることで、古き良き東京の旧市街の、終戦七年後の廃墟と化した現状を今に伝えてくれている。

戦災に会うまでは山の手のお屋敷町だったと思われる旧市内に、掘立小屋のような仮普請の家を建てて、池部良や三船敏郎扮する好青年が住まっている。戦後七年が経ち進駐軍が立ち去った時点での東京の光景には、まだこれだけの焼跡が歴然と存在していたという事実である。いかなる記録を読むよりも、その数秒間の映像にまさる雄弁はない。

それからまた、この映画『東京の恋人』に写し取られている銀座の光景。それはまさしく、親に連れられて小学生だった私も見た記憶のなかにある銀座に間違いない。そう、こんなだったのだ。いま見ると、自動車の通りが何と少ないのだろう。十朱久雄(幸代の父親である)と沢村貞子の夫婦の経営する宝石店や、森繁久弥の経営するパチンコ玉製造で成金になった会社(パチンコはこの二、三年前から隆盛になりはじめたのだった)の何と素朴なこと。多分私はこの映画で、森繁を、飲み屋のマダム役の藤間紫を、はじめて見たのだったが、それにもかかわらず、小学六年生にして私はもうすでにその時、ああこれが森繁久弥か、これが藤間紫か、と思いながら見ていたのだった。(但しここでの森繁は、のちに東宝の名物シリーズになった社長ものに於ける森繁社長と違い、いかにもインチキ臭い。当時この「名優」はもっぱらペテン師役で売り出していたのだった。)

三船敏郎は、お屋敷町の焼跡に掘立小屋に住みながら、バリッとした麻の背広に蝶ネクタイ、パナマのソフトをかぶって銀座を歩いている。かの『羅生門』がこの前年だから名声はすでに鳴り響いているが、こういう、都会派紳士でも池部良の軟派に対する硬派といった役も、おなじみの役どころの内だった。私には、むしろこういう三船の方が好もしくも懐かしい。黒沢映画だけで三船を論じたりする人たちは、こういうジェントルマンライクの三船をどう見ているのだろうか?(三船は当時、丹頂チックと丹頂ポマードのモデルとして雑誌の裏表紙を飾る一人だった。)

三船の役は宝石のイミテーションを作る技師で、十朱久雄と沢村貞子の夫婦の経営する宝石店に品物を納めるために始終銀座へ出てくる。(ウインドウには本物は飾らないのだ。)原節子は宝石店のすぐ脇の街角にキャンバスを立てて道行く人のスケッチを描いて渡世する似顔絵かきで、チェックの柄のシャツに胸当てのついたズボン、ベレー帽というスタイルである。やがて二人は偽ダイヤを巡る騒動から引っ掛かりができる。イミテーションの指輪造りという、ちょっと怪しげな仕事を業としている三船が、デウス・エクス・マキーナの如くに現れては危難を救ったりするうちに、次第にその人となりを顕わしてくる。その質朴な素顔を知ることになるのが、先に言った焼け跡に粗末な小屋を建てて住まっている暮らしを見る場面となる。

ストーリー自体は、真贋二つのダイヤの指輪を巡って、そのころ頓に需要を増して有卦に入っているパチンコ玉製造で俄か成金になった森繁久彌と清川虹子のその妻、藤間紫の演じるその二号等を狂言回しに、原と同じアパ-トに住む、杉葉子演じる気の毒な夜の女の更生をめぐる話などをからませて軽快なタッチで進行する。他愛もないといえばそれまでの都会派風俗喜劇で、この辺のドタバタをどう受け止めるかで評価は分かれるだろう。

千葉泰樹監督は、戦前から戦後もかなり後まで息長く活躍し、数多くのプログラム・ピクチャーを作った手練れのベテランだが、この前々年の昭和25年、新東宝『山の彼方に』などと一連の、戦後の風俗を明るいタッチで描いた、東宝や新東宝で作った作品が私にはこよなく懐かしい。言ってしまえば、『山の彼方に』がまさしくそうであるように,かの『青い山脈』の亜流ということになるわけだが、そうしたものの言い方は映画史家に任せておけばいいのであって、亜流とか二番煎じと言って切り捨てられてしまうようなB級作品の中に、往時を語り、往時のファンたちに(時には亜流ならぬ「本流」の作品以上に)愛され喜ばれ、一人一人の胸に忘れがたい記憶となって残されながら、その人々の死とともに、永遠に忘れ去られてしまう運命にある作品がどれほどあることだろう。私はそれが愛おしいのだ。

井上大助、高山スズ子など、とうの昔に時代の波間に消えていった年少の俳優たちは、『山の彼方に』で獲得した人気の延長としての出演であり、当時のこの手の映画に欠かせない常連出演者だった。(特に井上大助はいっとき名物少年俳優として、当時の映画を見るとあちこちに出演している。)イミテーションのつもりで森繁社長がくれた実は本物の指輪が、都電に乗って窓辺に手を置いたスズ子の指から抜け落ちて、ちょうど差し掛かった勝鬨橋の左右に分かれる境目のくぼみにはまり込む。橋を渡り切った所にある停車場で飛び降り、取りに行こうとする刹那、ちょうど橋を開脚する時刻となり、小旗を手にした係員の笛が鳴って交通が遮断され、人も車も橋の両端に待機させられる。(ああ、こういう風に橋が開くのだったっけ!)橋が開き、衆目の見守る中、指輪は水中に没する。銀座から築地へ、日に数回、開閉する勝鬨橋はまさに土地のシンボルであり、メルクマールであったればこその、B級映画ならではの設定である。(小津や黒沢がこんなあざとい場面を作ったら批評家に冷笑で報われるだけだろう。)

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昭和27年の原節子といえば、前年の『麦秋』『めし』、翌年の『東京物語』という原節子フィルモグラフィの頂点を形づくる傑作群にはさまれた、美しさの極みにあった季節ということになる。輝くばかりの微笑というのはこういうものかということは、子供心にもわかった。ベレー帽をかぶったりズボンをはいたりといった、都会の女性の「半男装」を思わせるモダニズムは、『兄の花嫁』など夙に戦前から彼女の得意とするところで、体格の小作りな、当時の映画女優の中でむしろ異色の存在であったといえる。原節子は決して「日本的」というタイプではなかったとする指摘を、近年見かけることが多くなったが、その通りであろう。体形といい顔立ちといい、田中絹代とか山根寿子のようなのが、往時の日本女性の典型美であったとすれば、原節子はむしろバタ臭い女優だったというべきである。『晩春』の冒頭、生け花を習いにやや遅刻気味にやってきた原節子扮する紀子が和服に腕時計をしたまま挨拶をする場面など(つまり彼女は「職業婦人」なのだ)、いま見ると、デケエナア、と正直なところ思ってしまうのも事実である。原の和服姿の美しさは、たとえば『秋日和』などの、むしろやや年齢を感じさせる年配に至って頂点に達するのだというのが、私の意見である。

『東京の恋人』は、原節子のモダニズムの魅力を見る上で恰好な作品と言っていいわけだが、彼女をもって日本女性の理想美とするような見方が定着してしまったために、やや損の卦に回ってしまったとも言える。しかし原節子のモダニズムという意味から、改めて再評価を訴えても門違いではないだろう。少なくとも、『白魚』『風ふたたび』といった同時期に前後して作られた失敗作(前者は豊田四郎、後者は熊谷久虎監督の、少なくとも当時の通念では『東京の恋人』より上位に置かれた作である)よりはるかに、原節子の美を語る上でも意味を持つものであることは確かだ。

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