随談第78回 観劇偶談(その35)浅草歌舞伎評判記(その1)

新年おめでとうございます。初春のお噂は「新春浅草歌舞伎」から。新聞の紙面の都合でいつもの夕刊の劇評欄ではなく、今朝、つまり7日付朝刊のコラムに載せたが、なにぶんスペースの事情もあるので、それを補う形で評判をするのを新しい年の第一回としよう。一般読者を対象とする新聞と違って、おのずからもう少し気儘な書き方で行こう。

大当たりあり玉砕あり、平凡なのはひとつもなかったという意味でも、今年の浅草は活気があって面白い。たとえ玉砕であっても、彼らにとって、平穏無事よりもはるかに価値がある。大当たりは勘太郎の勘平である。ただしそれは点数評価で最高点という意味ではない。点数評価で言うなら、最高点は亀治郎の二演目だ。雲の絶間姫、『蜘蛛絲梓弦』の六役早変り、ともに水も漏らさない。若手といわず、あの六役をあんなに水際立って変われるなんて、他に誰々がいるだろう。まさに猿之助の再来である。いや、土蜘蛛というあやかしの存在の陰りまで感じさせる点、明るい一方だった猿之助よりむしろ上かもしれない。

雲の絶間は脚本の文言の末まで読み解いて、花道の出から、石高の山道であることまでいちいち演じてみせる。それが出来るということ自体、既に大変なことだが、古劇のおおどかさを損なう半面を考えれば、凝っては思案に及ばずの一得一失ともいえる。

勘太郎の勘平は、そういう意味では未成品である。しかしこの未成品は大いなる可能性を秘めた未成品だ。そもそも浅草歌舞伎でかっちりした丸本時代物を出したのからして珍しい。浅草歌舞伎は若手の道場でもあるが同時に若い観客獲得の場でもあるから、つい辛気臭い丸本時代物は後回しになりやすい。しかしいつまでもそういうことばかり続けていては、やがてそのつけが廻ってくるのは目に見えている。『忠臣蔵』の五・六段目を新春歌舞伎に出して勘太郎と七之助に勘平とおかるを交替で勤めさせるという企画自体がヒットである。当然、勘三郎の指導であろう。おかるは玉三郎をわずらわせたらしい。

勘太郎は勘平・おかるどちらもよかった。きちんと義太夫狂言としての間が取れていて、しかも情感が瑞々しい。去年一年間、勘太郎は階段を一段一段登るように地道に力をつけていくのがよく分るような進歩を見せていたが、それが地力として養われていたことを証明してみせたのだ。未成品でありながら若い人ならではの実感があって、ベテランの勘平にはないドラマとしての感動がある。

玉砕とさっき言ったのは、じつは七之助の勘平である。ひたむきさは言うも更だが、ひとり相撲に陥ってしまったために、七之助自身の熱意には心打たれても、「ドラマ勘平の悲劇」の情感としてそれが伝わってこないもどかしさがある。実感に頼って顔を動かしすぎるのもよくない。しかし現在の七之助としては無理もないともいえる。反省はしなければならないが、悲観することはない。

一方おかるはよかった。若女形の美しさとおのずからなる愛嬌は、たぶん天性のものだろう。先月の『重の井』でも、七之助の腰元の匂い立つような美しさは、随一、目立っていた。今度の成績がどうのということではなく、また今はいろいろな経験をするのもいいが、やがては若女形の道を主体に歩むことになるべき人ではないだろうか。(この項つづく)

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