随談第79回 観劇偶談(その36)浅草歌舞伎評判記(その2)

浅草歌舞伎評判記の続き。

少し亀治郎の話をしよう。『鳴神』は獅童が相手である。本来は鳴神上人の方が主役だろうが、この場合どうしても女性上位になるのはやむをえない。獅童もなかなか頑張っているし、こういう役はいわゆる歌舞伎味が濃厚にある人がやるとそれがかえって裏目にでることもままある役だけに、獅童のスポーツマンのような直線的な身のこなしも一種のスケールの大きさとも見られて、獅童としては狙い目の役どころであるかもしれない。

こういう役だと、顎のしゃくれた顔に隈がよく乗って、死んだ延若に似てくるのも面白い。『蜘蛛絲』の渡邊綱になると一層なつかしいほど延若ばりのいい顔になる。歌舞伎の場合、いい役者に舞台顔が似ているというのは、往々、単にそれだけの意味に終わらない。獅童は、よく指摘されるように、これという役の経験が少ないために役どころがまだ定まらないでいるが、今度のこの二役は、ひとつの指針になるかも知れない。(もう一役の定九郎は、期待したが残念ながらはずれだった。定九郎は延若の傑作のひとつなのだが、松羽目物との違いがそう一筋縄では行かせてくれないわけだ。この辺が難しいところである。)

ところで亀治郎だが、先にも言ったようにこの絶間姫は、脚本を眼光紙背に徹するほどに読み込んで、読み込んだことをすべて表現せずにはいられないといった演じ方をする。何がかほどまでに亀治郎を駆り立てるのだろう? 教わったとおりになぞるというのとは正反対の行き方である。頭脳の明晰さとおのずからプロデュースせずにはいられない主体性とは、これからも亀治郎には肉付きの面のごとくつきまとうに違いない。亀治郎論としては実に面白いテーマだが、現実の舞台成果としては、それは必ずしも好結果を出すとは限らない。その意味からも、まさに猿之助の再来である。

『蜘蛛絲』はまさしく亀治郎のプロデュース力が成果を上げた好例であり、亀治郎自身の演技もすぐれているが、しかしこの狂言の中でわたしが一番目を瞠ったのは勘太郎の源頼光の古風なマスクであり、おっとりとした芝居ぶりである。ここには、勘太郎の演技プランや計算を超えた、いわば無意識のなせる領域があるに違いない。普通の劇評風にいえば、勘太郎の素質のよさということになるのだが、祖父の十七代目勘三郎から父十八代目を経て勘太郎の中に豊かに流れ込んでいる、これぞ歌舞伎役者の血ともいうべきものを感じずにはいられない。亀治郎の計算づくの遂に及ばない領域がその先にある。

亀治郎は『忠臣蔵』でも千崎をつとめているが、五段目では意外に見立てがなく、逆に六段目では息が詰んだ演技でじつに素晴らしい。千崎という役のお手本のごとくである。ダブルキャストの亀鶴の方は、五段目は亀治郎にまさり、六段目では(これもなかなか好演なのだが)やや劣る。思うに五段目の方が六段目より様式性が強いために違いない。

ほかの役々ではベテラン勢は別として芝喜松のおかやが第一等の出来。この人は国立劇場の研修生出身者中での名優である。門之助は去年の『封印切』のおえんでは失望したが、今度の一文字屋お才は悪くない。このあたりの役どころを是非我が物としてもらいたい。男女蔵が六段目の郷右衛門で、それらしい大きさと貫目があったのにもちょいと感心した。

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