随談第88回 上村以和於映画噺(その1)

また映画噺を再開しよう。本当は通算した回数を書いた方がいいのだが、この間の『富士の夜襲』のように日記や観劇偶談の中に書いたものもあるから、ちょいと面倒でもあるので、回数はその時々のひとまとまりの目印ぐらいに思ってください。

いま評判の『ALWAYS 三丁目の夕日』を見た。賛否あるとのことだが、結論風にいえば、まあ上手に泣かせてもらいました。もちろん、当時を実際に知らない世代のひとたちの作ったことだから、有形無形、ひっかかるところをいろいろ言い立てればアラはでてくるに違いない。東京タワーが建設中の昭和33年の春から年末までという設定は、時代のシンボリックな表現として結構だろう。

この前小津安二郎の『お茶漬の味』のことを長々書いたが、あれが昭和27年、サンフランシスコ講和条約発効の年である。それから六年、さらに六年後が東京オリンピックという寸法だ。時代を捉えるスタンスとしても悪くない。後世の目が、まして当時を実体験していない目が、近過去を見るとき、ある種の紋切り型というか、作られた通年に沿うことになるのはある程度はやむをえない。

テレビが来た。隣近所みんなが集まって見る番組が力道山のプロレスというのは、そうだその通りだったと思う人もあれば、嘘ではないがあまりにも典型的すぎると思う者もあるのは当然のことだろう。力道山が最も鮮烈なショックを日本人に与えたのは、シャープ兄弟を連れてきて日本人がはじめてプロレスというものを知った昭和29年の早春であり、プロレスというものにあるイメージを決定づけたのは昭和30年暮の木村政彦との一戦である。テレビの普及に一役買ったのがプロレスと大相撲中継、決定的だったのが皇太子ご成婚というのが、よく言われたことだが、その皇太子ご成婚は翌34年の春である。

少年二人が都電に乗って高円寺まで尋ねてゆくというのは、なるほどそうだったと思わせて巧い。青梅街道をチンチン電車が走っていたのだ。東京タワーが間近に見える場所、という場面設定は、芝から三田、赤羽橋あたりだろう。表通りから一つ入ればああいう街並みがあってもおかしくない。(少々人通りが多すぎるきらいはあるが。)

いかにもそれらしいのが、薬師丸ひろ子の女房役で、あの所帯じみた感じが時代の距離感をよくとらえている。昭和33年といえば、戦前の残滓をかなりまだ引きずりつつも、既に確実に「戦後」なのであり、それはそのまま現代に直結し、流れ込んでもいる。決してそれほどの大時代ではないのだ。あの設定の子供たちから見て、またあのぐらいの子供の母親としての年齢から見て、あれはいかにも昭和33年の「おかあさん」である。

最後にあの少女を上野駅まで送っていった一家がオート三輪で汽車と併行に土手の上を走るのは、コーダを飾る泣かせ処だが、少々のご都合主義には目をつぶるとしても、あれは北千住あたりの荒川土手と考える他はなく、芝や三田界隈へ帰る途中とするには無理がある。芝居の嘘はもちろんいいのだが、隠れもない東京の地理関係だけに気になる向きも少なくないだろう。やはり、昭和33年はもう時代劇なのだろうか。そう考えれば、つまりこれは現代の「世話狂言」なのである。

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