随談第90回 観劇偶談(その42)

連日の観劇やら原稿書きやらロング座談会の校正やらでついご無沙汰をしてしまった。

その連夜の観劇のひとつ、新国立劇場で『ガラスの動物園』を見ながら思ったことだが、いまさら知ったわけでもないが、この作品が初演されたのが1945年3月(つまりその頃、アメリカは日本と、というか日本はアメリカと、まだ戦争の真っ最中だったわけだ)で、舞台の設定が1930年代ということになっている。作者自身が半自叙伝的追憶劇と言っているのだから、当然といえばそれまでだが、昨秋に見た『夜の来訪者』にしても、近代の欧米の演劇にはこうした近過去に設定した舞台が多いことに改めて思い至った。

これはどういうことなのだろう? 戦争とか、とくに何か歴史上のことを扱うなら別だが、少なくとも直接にはそうした重大事件とはかかわりのない日常茶飯を題材にしているにもかかわらずである。現代劇とは、ある意味では半過去劇であるとも言えるかも知れない。

今度の『ガラスの動物園』では、ナレーターのトム役の初老の木場勝巳が、そのまま青年時代のトムを演じるという演出になっているので、現在と近過去が二重に重なり合い、いやでも見る者は時の経過を意識せざるを得ない。姉であるローラが妹どころか娘といってもよいほどに見え、母のアマンダがむしろ夫婦のように見える。当然、職場の同僚のジムは娘の恋人か友達のようだ。その時間と歳月の距離がいつも見えているところが面白かった。

リアリズムといっても写実劇ではないから、時代を忠実に再現する必要はない。舞台に置かれているセットも別に三十年代でなくとも、六十年代といったって通用する程度のものだ。そういう、歴史上の過去よりも、トムにとっての十何年か前、という方がこの場合意味を持つ。あるいはむしろ、日本で日本人の俳優たちによって日本人の観客の前で演じるには、六十年代ぐらいの方がちょうどいいともいえる。イリーナ・ブルックとノエリ・ジネフリという、ふたりの外国人女性による演出と美術が、今度の場合、そうした距離感を中和しながら、特殊性よりも普遍性の方を観客に意識させる上で、物を言っている。

そうはいっても、母親のアマンダという役は、日本の女優が演じるのに厄介な役に違いない。ジムという「青年紳士」(というコトバの響きが、何度もアマンダの口から繰り返されるたびに気にならざるを得ない。小田島雄志さんもこの訳語にはさぞ困っただろう)を迎えるために、娘時代のドレスを着て現れるというあたりはどうしたってテネシー・ウィリアムズの風土の匂いを抜きには見ていられない。木内みどりという女優さんには好感を持っているつもりだが、ここはいかにも見ていて気の毒になった。プログラムに谷林真理子氏がジェシカ・ラングの演じたアマンダの存在感について書いているのを読んでも、さもありなんと思わざるを得ない。母親がやはり一番風土と密接な存在なのだ。そうして、家と家族を捨てて不在になっている(つまり舞台には登場しない)父親もまた、実はウィリアムズの風土の匂いを舞台上に芬々とさせているのであって、その影の中にいるトムもまた、本当は木場勝巳のようなスマートな存在感ではいけないのではあるまいか。

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