随談第92回 スポーツ偶談(その2)

オリンピックが始まって、始まってしまえばもともと好きな方だから、まあテレビを見ることになる。

毎度のことだが、放送を聴いていていつも気になりもし、同時に面白いのと思うのは、解説者が「いいですね、いいですよ、いけいけ、大丈夫です、さあこれからだ・・・いいですよ、いいですよ、ああ残念でしたね」といった経過を辿ることが多いことである。今度の大会はいまのところ日本選手が期待ほど振るわないからなおさらなのだが、しかしいま私に興味があるのは選手の成績の話ではない。つまり、同じ批評をする人間として、解説者のこの「ぶざまさ」が他人事ではないのである。

スポーツの場合、何と言っても寸秒を争うレースと同時に喋るのだから無理もないといえば無理もないのだが、その証拠にレースが終わって少し時間がたってからだと、さっき「いいですよ、いいですよ」を連発していた同一人が、あそこが悪かったここが失敗だったと、したり顔で敗因の分析などをしているのを見ると、正直なところ、何を尤もらしいことを言ってやがるという気がしないでもない。それなら何故、さっきは「いいですよ」と言ったのだ! ということになる。

つまり寸秒を争う咄嗟の場合という条件の他に、もうひとつそれ以上に、解説者の人格が分裂しているということである。レース中に喋っているときは、当然ながらまず自分自身の期待感がある。同時に、視聴者の期待にも応えたい、というような善意の配慮も働いているだろう。更には、解説をするほどの人なら、その種目の業界(!)の何らかの関係者であったりすることも多いから、そういう場合だと、ここでこの選手にメダルのひとつも取ってくれなくては困る、というような「邪念」だってあるに違いない。その他、もろもろの思いが重なり合って、つい「いいですよ」を連発することになるのだろう。二重人格どころか何重にも分裂しているわけだ。(民放によくあるように、日本のスタジオにいて、尤もらしい「しゃべくり」をしている連中はこの際別にしよう。)

さてここで問題は、業界関係の事情みたいなことはこの際別としても、応援したいという気持と、解説者さらには批評家としての心情との関係である。解説者・批評家としては、「いいですよいいですよ」を連発しながら「ああ、残念でしたね」で終わるのは、みっともないし無責任といわれても仕方がないだろう。しかし体操やフィギアスケートの解説者にありがちのように、競技中にすかさず、ア、ここで0コンマ1減点ですね、などと妙に感情を押し殺したような声でやるのも、あまり愉快なものではない。(しかしこの手の批評が一部のオタク風のファンの支持を得るのも、昔から必ずあることであって、だから「したり顔批評」というのも、批評として一応成立するのである。)

むかし森鴎外の弟の三木竹二という批評家は、どんなに厳しく批評をしてもいいが、本人と顔を合わせても毅然としていられるように書けと鴎外から言われたそうだが、厳しいか甘いかという以上に、肝心なことは、この「いいですよ」と爾後の客観的分析との関係にあるような気がする。

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