随談第101回 観劇偶談(45)コクーン歌舞伎

コクーン歌舞伎の『東海道四谷怪談』、南番・北番とも初日を見た。どちらも串田和美演出のメスが入っているが、南番は基本的には脚本・場割りとも現行歌舞伎に沿っているのに対し、北番は串田演出が全面的に施される。特に「隠亡堀」以降は串田演出オンパレードであり、かつての猿之助版『千本桜』ではないが「直助編」という趣きでもある。勘三郎の役も、お岩は両番ともだが、南番が与茂七、小平と「いつも通り」なのに対し、北番では直助権兵衛を初役でつとめる。串田演出の主眼も直助をフォーカスするところにあるかに見える。

たしかに、「三角屋敷」が出ないのが通例になってしまった「現行」だと、途中から消えてしまう直助という役は、立者がつとめるいい役には違いないが、所詮は本筋には関わらない脇役に過ぎない。(もっとも役者から見れば、「序幕」と「隠亡堀」でいいところだけ見せて引っ込んでしまう、いわば荒獅子男之助とか、「床下」だけの仁木弾正のような、得な役と映っているのかもしれない。)

しかし『忠臣蔵』とテレコに作った『四谷怪談』の作意からすれば、「三角屋敷」は六段目の勘平腹切りの裏であり、直助は義士になりそこねた勘平に対応することになる。直助がじつは元は武士の生まれだという因果話をちゃんと言わせているのは、その対応を押さえての措置だろう。「三角屋敷」と行って来いで「小平内」を出して小汐田又之丞の足萎えが平癒する場面も出る。直助と小平とふたりの元足軽の生きざまが対照的に描かれているところに着目したのだろう。大詰の「蛇山庵室」も伊右衛門と戦うのはお岩ではなく直助の霊である。

原作の全場面を出すのが北番の眼目だそうだが、要は戯曲の全貌を視野の内に入れ、そこに登場する人物たちのすることを人の世の縮図として眺めようということなのだろう。全場面といっても原作を丸ごと出すのは時間的に不可能だから、その処理の仕方に串田演出がものを言うことになる。「夢の場」などは鳥籠の中に子役のお岩と伊右衛門が入っている。なるほど、ひとつの方法ではある。笹野高史の演じる伊藤喜兵衛が、南番より北番の方が存在が際立って見えるのも、人間社会の万華鏡の一人として映るからだろう。

北番・南番とも、舞台の上手と下手に六面ある大きなボックスを置いて人物の出入りに使うのは、新劇の演出家として歌舞伎の定式を破るための措置だろう。舞台の上に「所作高」と同じぐらいの車付きの舞台を置いて場面転換させるのも、この劇場に仮に廻り舞台があったとしても、きっとこうしたに違いない。(人物、とりわけ集団の出入りについて歌舞伎から離れたいと考える一点で、串田にしろ野田にしろ、去年の『十二夜』の蜷川にしろ、共通しているのは面白い。歌舞伎の大道具の定式というものが、いかに歌舞伎を歌舞伎たらしめているか、このことから逆によくわかるというものだ。)

背景に巨大な仁王像を置いたのが、人間界を俯瞰する「目」を意識させるためなのはわかる。背景の粗いタッチのなにやらの絵は、北番ではいいが南番ではどうか? しかし串田演出と謳う以上、敢えてそうしたかったのに違いない。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です