随談第102回 番外・野球相撲噺

土曜日曜のテレビは週刊ニュースが多いせいもあって、WBC優勝のニュースがまだ興奮醒めやらずの調子で続いているのはいいが、そろそろ論調が一定パターンに流れ出したようでもある。中でもイチロー礼賛の声がかまびすしいのは、もっともでもあるが、うっかりするとそればっかりになりそうな感じもあるのがちょっと気になる。

ふだんクールなイチローが率先してチームをよく引っぱった、という。それはその通りであろうし、この論法にはもう一面、イチロー論としての側面もあるから(つまりイチローの新しい一面を発見したという)興味ある話題ではあるのだが、しかしたとえば、もうひとりのメジャーリーガーである大塚の切り札としての働きや、マウンドでの姿から想像されるチーム内での存在ということなど、もっと言われていい筈だ。宮本が打撃練習の投手を買って出たという記事も読んだが、イチロー礼賛の声の陰に目立たなくなってしまいそうだ。

イチローを礼賛することはもちろん結構だが、肝心なのは、なぜ彼がこんどのWBCにあれほど入れ込んだのかということだ。前にも書いたが、メジャーであれだけ、やり尽くすほどやったればこそ、その意義をだれよりも強く感じ取り、だれよりも深く認識したのに違いない。メジャーにあこがれ、あるいはメジャーで生き抜くために四苦八苦している段階の者には、まだそこまで見切ることができないのも、無理がないともいえる。問題は、ジャーナリズムも含めた日本の野球関係者が、今後WBCとの関わりをどう考えるかだろう。

こんどの優勝で、「野球」が「ベースボール」に勝ったのだ、という論が流れはじめているのは注目に値いする。これも、妙な自己満足の方に流れてしまうとよくないのだが、本質だけを考えると、なかなか面白いテーマになる。古来、さまざまな文化が東の果てにある「東海の小島」(啄木の有名なあの歌の、東海の小島というのを日本列島のことだと考えると面白いと西脇順三郎が言うのを聞いたことがある)に流れ着いて、本家とは一種別な文物として日本化したように、明治維新の後、東方から太平洋を渡って「西海の小島」に流れついたベースボールが、日本化して野球となった。往時の鹿鳴館で器用に西洋舞踏を踊ったハイカラ紳士と相似形の今日のメジャーリーグ礼賛者に散々くさされた「野球」が、ともかくもここで(井の中の蛙としてではなく)海外に向けて自己主張する機会ができたわけだ。

ところでめでたく千秋楽をむかえた大相撲は、優勝も三賞もすべてモンゴル力士という結果で終わった。日本史上二度目の蒙古襲来、国難ここに至ったというのは冗談で、これもアメリカ野球がホワイトだけではとうの昔にやっていけなくなっているのと同じ現象と考えるべきだろう。悔しかったら日本人力士が奮起して勝つしかないのである。

(ところで朝青龍と白鵬の優勝決定戦で、右四つになったのは、はじめ右上手が取れなかった朝青龍の方から右を差して下手から引き付けて速戦即決の作戦に出たのだ。それを、右四つになったから白鵬有利と放送したのは、データの浅読みではないか?)

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