随談第104回 「1周年目のブログ」(その2)

前回の終りに、文章というものは本質的に他者に対してなされるものだ、と書いた。他者に対して、ということをもう少し正確にいえば、他者との関係の中で、ということになる。読者を想定しないと文章というものは書けない、と言ったのも同じことである。

読者を想定するといっても、べつに具体的な誰それという意味ではない。現に私は多くの場合、不特定多数という、顔の見えない大勢の読者を相手に書いている。仮想というなら、あくまで仮想に違いない。そういう、何らかの仮想を成立させることで、文体というものが定まるのだ。(それは、手紙のような具体的な相手の定まっているものとは、おのずから異なる文体になる。未知の相手に出す手紙が書きにくいのは、この仮想が定めにくいからで、ふつうの手紙の文体というのは、具体的に定まった相手に向かって書くようにできている。)

文体論の講釈をはじめるつもりではない。批評、とりわけ劇評というものを、インターネットを通じて書くことに、私はまだ若干のためらいを感じているが、そのことの意味を考えてみようとしているのだ。もしかしたら、そのためらいは、単に私がまだインターネットというものに馴染みきっていないからに過ぎないのかもしれない。既に「観劇偶談」という形で書いているのも劇評ではないかと言われれば、そうでないとは言えない。あれを書くのと、新聞や雑誌に書くのと、どれだけ違うのかと問われれば、明確な答はたしかにむずかしい。

「偶談」としたのは、いま以上にインターネットというものに不慣れだった一年前、手探りで読者を仮想しようとして思いついた、ひとつの方法でもあった。「偶談」という言葉にすでに表われているように、そこにはやや、話し言葉のニュアンスがある。少なくとも、筆を手に持って原稿用紙に書くときよりも、指先でキーを打つとき、スポークンの感覚に近いものを感じるのだ。指でキーを打つのはワープロでも同じことだが、決定的に違うのは、インターネットの先には、剥き出しの世界が直結している点だ。

私は自家用車の運転というものをしないが、何故しないかといえば、同じ乗り物でありながら、電車やバスやタクシーと違って、ハンドルを握る自分の手がそのまま、剥き出しの世界とじかに向かい合っていることを、恐ろしいと直覚するからである。これは、事故を起こしたらどうしようというような理屈以前のことだ。飛行機がこわいというのとは、まったく意味が違う。そうして、筆で紙に書くのと、インターネットのキーを打つのの違いは、どこかそれに似ている。

そうはいっても、もう既に、私の指先はキーを打つことにかなり馴染んでしまった。すでに一冊分、本も書いている。(出版はまだだが。)馴染みつつも、まだとまどいがあるのは、原稿用紙だと、いま何枚目を書いているという自覚が、全体の構成や論の運びを自ずから直感的に決めていけるが、それに変わる感覚がまだつかめずにいるためもある。このブログにしても、とりあえず「ワード」の一枚分ときめているのは、その分量を書くことで、ひとつの感覚ができつつあるのを感じるからである。

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