随談第116回 観劇偶談(その55)

明治座の石川さゆり公演の『長崎ぶらぶら節』と新国立劇場の『Into the Woods』を同日のうちに見るという経験をした。どちらもなかなかよかったのだが、こういう対照的な芝居を(歌舞伎風にいえば)昼夜通して見たりすると、またなかなかおもしろい発見やら、物思うところがあったりする。

『長崎ぶらぶら節』は、いわゆる郷土史家の古賀十二郎という人物と長崎の丸山芸者の愛八とが、地元にひっそりと忘れられたような形で残る古い歌を発掘してまわる内、田舎のたったひとりの老妓が覚えていた「ぶらぶら節」を発見するというのが話の核だが、原作者のなかにし礼がこの秘話を知ったのは、以前創作オペラの台本を書くうちに歌と風土の関係について思うところがあり、全国の民謡を調べる中で、昭和初期に愛八が吹き込んだレコードを聞いたのが契機だという。

そのレコード化にあたって西条八十が登場するのがまたおもしろいのだが、いまはそれは措くとして、さて一方『Into the Woods』だが、こちらはグリム童話の有名作をひとつの盤上でばらばらにして組み替えたり、裏読みをしたり読み直しをしたという知的な操作(とそれにじつにマッチした作曲の妙と)を愉しみながら、現代われわれにきつけられている問題が頭をよぎったりするところにミソがあるのはいうまでもない。問題は普遍性があり、この作が秀作であるのは確かだが、しかし同時にふと思ったのは、これが日本の新国立劇場で日本人の(それも小堺一機だの高畑淳子だの、天地総子だの、しょっちゅう、またはむかし、テレビでおなじみの)俳優たちがやっているという安心感があるのだけれども、もしかすると、それでずいぶん、本当はこの芝居が持っている恐ろしさが減殺された形でわれわれは見ているのではあるまいかということである。

それというのが、昨秋映画の『ブラザーズ・グリムを見てげんなりしてしまった記憶が、まだ生々しいからでもある。映画の出来のことはいまは別として、グリム童話をむかし楠山正雄訳で読んだ(西欧というものの不気味さをそこはかとなく感じた、これがはじめだった)者として、ただのきれいごととは元より思ってなどいないにせよ、あの映画のような肉食人種のまがまがしさは、とてもすんなりと受け付けられるとは思えない。こんどの宮本亜門演出にしたって、すくなくとも無意識のうちに、米食(少なくとも麦食)人種的に「翻案」されているに違いない。

と、結局、文芸と風土という古くて新しい問題に返ることになるのだが、さて『長崎ぶらぶら節』だが、なかなかの出来である。石川さゆりは、ポスターやチラシに載っている芸者ぶりから、じつは一種の予感があったのだが、その予感は的中したことになる。劇中、来訪した西条八十の前で「ぶらぶら節」を歌う場面など、圧巻という表現をつかっても差し支えのない迫るものがあった。

また劇中で見せる横綱の土俵入りは、北の湖からマンツーマンで教わったそうだが、目の当たりに見る北の湖に、まるで地球を抱きかかえるかのような、大きなものを感じて、これが横綱というものなのだと思ったという彼女の弁が、印象的である。北の湖はまさに、相撲というものの根源を見せたことになる。

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