随談第120回 スポーツ随談(続)[番外・昭和20年代列伝]

鶴ヶ嶺が死んだ。田村高広だの岡田真澄だの、今村昌平だの、いちいち書いておきたい人の訃報をここのところ続々(という感じで)聞くが、それはまた何かの折を考えることとして、いまは117回の相撲噺の続編ということにして(スポーツ随談という題にしたのは野球だのまた始まったサッカーの取らぬ狸の皮算用のことだの、いろいろ書くつもりだったのだが暇がなかったので、これもまた改めてということにしたい)、鶴ヶ嶺のことを書いて冥福を祈りたい。

前回も櫓投げの羽島山だの吊りの明歩谷だの内掛けの琴ケ浜だののことを書いたが、いま振り返っても、昭和20年代から30年代の相撲界というのは、大変な名人・上手の輩出した時代だったのではないかという気がする。ほかにもりゃんこの信夫という仇名がついた双差し名人の信夫山とか、速攻の北ノ洋や初代琴錦とか、左差し半身になって若乃花をもてあまさせ何度も水入りの大相撲をとった出羽錦とか、体重二十一貫五百(つまり80キロちょっとだ)で倍以上もある横綱鏡里に三場所連続で勝った鳴門海とか、怪力無双の荒法師玉乃海とか、決して強くはなかったが古武士のような風格が忘れがたい大蛇潟とか、理論家の若瀬川とか、まだまだ挙げだせば切りがないからこのぐらいにするが、みな、名人・上手であるばかりでなく、立派な風格(というのも相撲では大切なことであって、そこが、ただ強ければよいとする他の格闘技とは一線を画するところなのだ。今後大相撲が国際化することに私は賛成だが、この点だけはいい加減にしてはならない急所でだと思う)を持った名力士たちだった。

しかも肝心なのは、(琴ケ浜は大関になったが)これらの名人上手の名力士たちが、みな関脇までで全うしたことである。(鳴門海などはたしか前頭筆頭が最高位ではなかったか。)

関脇がいかに強かったか、ということでもあるが、それ以上に、勝ち負けがすべての筈の相撲というものの懐ろの深さを思うべきなのだ。

ところで鶴ヶ嶺だが、こうした名人・上手たちの中にあって、名人ぶりがちょいと違った風(ふう)をもっていた。風貌や相撲振りから察せられる人柄から、むしろ陶芸家かなにかと共通するような風韻が感じられた。安藤鶴夫がこの人のことが大好きで、絶賛する文章をいくつも書いているが、わたしも、なんとなく七代目三津五郎などにも通じるような、脱俗的な気韻を感じていた。

もちろん、これは私がただ一方的にそう思っているだけの話であって、そこからなにかを持ち出して語ることは、ご当人にとってはむしろ迷惑なことに違いない。鶴ヶ嶺はあくまでもお相撲さんであって、芸術家ではない。しかし単なるお相撲さんでもなかったのではないだろうか。

妙なことを覚えているのだが、この人は最後の土俵という日に朝稽古のあと氷を食べて胸が痛くなって、休場してしまった。安藤鶴夫が亡くなったときにも、たしか似たような椿事があったと思う。大袈裟なセレモニイなどをして野暮ったい最後を飾らなかったところも、脱俗の名人らしくて、この鶴ヶ嶺最後の土俵の逸話を、私はひそかに愛している。

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