随談第126回 蹴球偏痴気論

私はサッカーに対してやや冷淡な人間である。嫌いではないが、どうももうひとつ乗れないものがある。だから、ワールドカップでマスコミが大騒ぎしているのを見聞きすると,いっそ全敗して帰って来い、などとへそ曲がり気分がむらむらと起こってきたりする。

ところが本当にそうなりそうな雲行きになってきた。オーストラリア戦、クロアチア戦、どちらも見たが、一向に私のサッカー観を変更してくれそうにない。要するにかったるいのである。見ていていらいらしてくる。

戦前の予想をいろいろな専門家や事情通がしているのを聞くと、到底私などの出る幕ではないと思うのだが、敗戦後の批評を新聞などで(こんどはかなりつぶさに)読んでみたら、なんと私が思ったのと同じようなことが書いてあるではないか。してみると、頭を冷やして冷静に見れば、専門家もど素人の私も、似たような見方をしているのだ!

戦う前のテレビ予報は、要するに、敵は幾万ありとてもすべて烏合の衆なるぞ、という(何と!)日露戦争のときの軍歌と同じ、自分の都合だけから割り出した戦力分析なのだ。オーストラリア戦? 勝つに決まってるじゃありませんか。クロアチア戦? 勝たなきゃじゃなくて勝つんですよ。何回、何十人、何百人の人からこの手の論法を聞いただろう? 専門家から、通人から、サポーターと称する輩から。(いっそ負けちまえ! そのたびに、そう胸の中で呟くことが多くなった、胸苦しくなるほどに!)

ジョークだよ。戦う前から弱気なことをいうものではないからね・・・おそらく、そういう返答が返ってくるのだろう。他の問題には沈着・的確な論陣を張っているキャスターや評論家諸氏などからは。まあ、そうであると信じるとしても、言論や弁舌をもってマスコミに生きている人たちが、街角でインタビュア氏にマイクを突きつけられた街の人と、同じ論法でしかコメントしなかったというのは、どうも考えさせられる。

さてここからがいよいよ偏痴気論だが、私に言わせれば、サッカーとは本質的に見る者をいらいらさせるようにできているスポーツなのだ。だって五体満足な人間に、手を使うことを封じた上に成り立っているのだから。そうして(好きな人にとっては)そこにこそ、このスポーツが限りなく知的で、デリカシイに富んだ唯一無二のスポーツになり得た根源があるに違いない。能楽が、制約が多いが故に比類のない芸術でありえたように。

第二に、サッカーとは「徒労」のスポーツである。あれだけ長い時間、あれだけ大勢の人間があれだけ絶え間なく動き回って、たかだか二点か三点しか「実り」がないのだから。観衆はその間、絶え間なく希望(それ行け、そこだ!)と落胆(アーア、なんだあのシュートは!)を繰り返す。いらいら。そこにこそサッカーの魔物が棲んでいる。サポーター同士の喧嘩沙汰から果ては国家間の紛争にまで発展するのも、むべなることなのだ。

サッカーのプレイ中にもどかしくなったラグビー校の生徒がボールを手に持って走り出したことから始まったというラグビーの起源伝説は、私の「サッカーいらいら説」を裏づける有力な根拠だろう。しかしサッカーの魅力を知る者にとっては、ラグビーは、相撲の魅力を知る者がプロレスやK1に感じるものと、共通するものがあるに違いない。

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