随談第129回 サッカー余談

もうサッカーの話はおしまいのつもりだったが、中田の引退という「事件」を見ていたら、もう一回書く気になった。

そもそもいまのサッカー選手で、私がはっきりその存在が認識できるのは、つまり、街角ですれちがってもわかるのは、中田と、キーパーの川口ぐらいのものだ。人物として興味を抱かせるとなると中田しかいない。(川口も、ちょっと他のサッカー選手と違う雰囲気を感じさせて好感がもてるが、人物として論じて見たいとまでは思わない。)

こんどのワールドカップで日本が戦った三度の試合の後、インタビューに答える中田の言うことを聞いていると、自身とチームの実体を冷徹に見切っていることがよくわかる。まずそのことに、興味をもった。

最終のブラジル戦のあと、七分間だかひっくり返っていた姿は、ふつうならみっともないというところだが、しかしそういう常識論を超えるものを感じさせたのは確かだ。あの七分間に、よくも悪くも中田という人物のすべてがあるともいえる。つまり彼はエイリアンなのである。マスコミ流の穏当な言い方をすれば孤高の人ということになるが、少なくとも現状のサッカー界ではエイリアンと言った方がふさわしい。

サッカー界のエイリアンが、ホームページで長文の引退の弁を発表して、サッカー界から「自分探し」の旅に出ると言った。あの引退の弁はなかなかよく自他の結界を見極めながら書いていると思うが、ただひとつ、「自分探し」などという当世流の言葉で己れを語ろうとした点だけはいただけない。自分探しなどというのは、二流の心理学者かなにかが言い出して、そこらの学校の入学案内などに必ずでてくる、いまどき流トレンディの安っぽい用語なのに。そんな言葉で人生の決断を語ったのは、ちょっと失望した。そもそも、自分なんてものは、探して見つかるものなのだろうか? (ついでだが、こんな言葉で受験生や生徒を惑わせるのは、ずいぶん罪作りではないだろうか?)

しかしまあ、いまはよしとしよう。過去何年間かの過酷な環境を生き抜いてきた体験は、そんな無内容な出来合いの用語を使うまでもなく、もっと確かな生きるためのコアを確信させている筈だ。大学に入るという噂も聞いたが、それもいいし、そうでなくともよい。大学に入るなら、自分探しなどというそこらのギャルみたいなレベルでなく、己れの思うところを実現させるための高度な術(すべ)を獲得するためであってほしい。そうでなければ、あのひっくりかえって涙を呑んでいた七分間は何だったのだということになる。

たとえば医師になる、法律家になる、まあなんでもいいが、とにかく、日本サッカー協会などというところとは無縁な地点に自分の立つ場所をつくる。その上で、自分の思う形と方法でサッカーと関わる仕事を開拓する。そういう姿として、しばらく世間から忘れられた何年間かののちに、再び、もっと静かな形でニュースになる。そういう時がくれば、たぶんそれが一番いいだろう。少なくとも、エイリアンに似つかわしい。

それにしても、最後の試合の相手がブラジルだったのは、中田のために幸せだった。予選でブラジルと日本を同じ組に入れてくれた神の配剤に、中田は感謝すべきである。

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