随談随筆(その2) ジダンの頭突き

サッカーのワールドカップの決勝戦の大詰めで、フランスのジダン選手が、相手方のイタリアの選手に頭突きを喰らわせた椿事が、たちまち世界中を駆け巡る話題となった。テレビ中継のさなかに起こった事件でなければ、あれほどの話題にはならなかったに違いない。これほど大勢の目撃者のいた事件というのもめずらしい。大事件に立ち会ったというだけで、つい誇らしい気分になる。それでまた、ジダン事件評論家が世界各地に誕生する。

と思ったら、こんどは大相撲で、ロシア出身の露鵬が大関の千代大海と勝負がついた後の土俵下で口論となり、取材にきた新聞社のカメラマンに怒りが収まらぬまま暴行をふるうという椿事が起こった。

ふたつの事件に共通するのは、口論から事がはじまったという点である。満場注視の中で起こったとはいえ、よほど傍にいた人でないかぎり、何を言ったのかはわからない。とにかく、耐え難い侮辱を受けたと感じたればこそ、事件は起こったのだ。

ジダンの事件からすぐに連想したのは、忠臣蔵の松の廊下の一件である。通説では、浅野内匠頭が吉良上野介の侮辱に耐えかねて、ご法度である殿中で刃傷に及んだということになっているが、ではそれがどんな侮辱だったかといえば、じつはだれも知らない。むかしから講談俗説から小説、映画テレビの脚本まで、なぜ浅野が刃傷に及んだのか、いろいろな原因を考え出したが、すべては想像にすぎない。

松の廊下の場合は、たまたま傍に居合わせて内匠頭を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛という人物が証言を残しているが、このあいだの遺恨覚えたか、と言いざま突如浅野が刃傷に及んだというだけで、遺恨の内容までは知らなかったらしい。

歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』では、吉良上野介に擬した高師直が、浅野内匠頭に擬した塩冶判官をいびる場面が克明に描かれ、誰が見てもあれでは刃傷(頭突き?)に及んだのももっともだ、と思わせるようになっている。大名たるものを、鮒だ鮒だ、鮒侍だと嘲弄するのが「耐えがたい侮辱」のクライマックスである。

ジダンの場合も、いろいろな推測がされていて、おおよその想像はつくが、口論の相手のイタリア選手が口を閉ざしている限り真相はわからない。決勝のこれから延長戦だという大事を前に軽率だったという批判があるところも、『仮名手本』の作者が「浅きたくみの塩冶どの」と作中人物の口を通して批評させているのと共通する。

それはそうなのだが、大方の同情がジダンに集まっているのは、職場や仕事上のことから、電車の乗り降りの無作法から、さらには家庭内においてすら(!)、お互いさま、みんなくち惜しい思いに耐えながら生きているのだという共感が、だれの胸の底にもあるからだろう。法を侵した浅野も悪いが、そう仕向けた吉良だって同罪ではないか、というシンパシイが忠臣蔵を四百年間、支えてきたとすれば、ジダンにとってのW杯のピッチはまさに松の廊下だったことになる。

忠臣蔵は人間のするあらゆることが載っているカタログだ、とは鶴見俊輔さんの名言だが、ジダンの事件はそれをあらたに証明したかのようだ。

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