随談第134回 昭和20年代列伝(その5)

前回の話の続きである。

さてやがて、その三木鮎郎氏が到着し、乗っていた自動車が心棒を折るという事故を起こしちゃって、と弁明をし、息をととのえますから十数えるあいだ待ってくださいと断ってから、さあ始めましょうといって、公開録音を開始した。子供ごころにも、なかなかスマートなものだと思った。

このおしゃれクイズというのが、どういう形式のクイズだったか思い出せないのだが、題名から想像できるように若い女性の出場者が多かった。民放が始まってから、それまでの、「二十の扉」とか「話の泉」とか「とんち教室」とかいったNHKのクイズとはひと味違う、新しいタイプのクイズがにわかに増えたような記憶がある。NHKでも、「三つの歌」のような比較的民放に近い感覚のクイズ番組がしばらく前から評判になりはじめていた。

いまの言葉でいう時間が押しているので、わずかな準備時間で、つぎの番組の公開録音がやや慌しくはじまった。同じクイズ番組でも歌謡曲がテーマのせいか、司会者も出演者も、入れ替わりのあった聴衆も、ぐっと一般的になった気がした。これもクイズの形式が正確には思いだせないが、民放版「三つの歌」という感じだったのは辛うじて覚えている。

さてこの番組に、たしか歌唱指導のような役回りで登場したのが、松平晃だった。司会者がその名を紹介すると、隣にいた母が、あー、マツダイラ・アキラ、と感に堪えたような声を上げたのを、はっきり覚えている。元気でいたのね、とは言わないが、そういった雰囲気であったことは小学生の私にも察しられた。ちなみに母は明治42年生まれの酉年、十七代目中村勘三郎と同年である。

それまでも、NHKでも歌謡曲の番組はたくさんあった(ような気がする)から、藤山一朗とか霧島昇とかディック・ミネといった、盛んに活躍している戦前以来のベテラン歌手の名前は、私もかなり知っていた。しかしマツダイラ・アキラという名は、この時はじめて聞く名前だった。母が、なつかしさ半分おどろき半分のような嘆声をあげたのも、当時でもあまり聞くことのない名前になっていたからだろう。

小沢氏の本によると、松平は藤山一郎と同年の明治44年生まれ、昭和36年に五十歳で晩年は不遇のうちに死んだとあるから、このときはまだ四十二歳だったことになる。しかし、子供の目で見た印象ということを差し引いても、もっと老けて見えた。「走れ幌馬車」という往年のヒット曲を歌って見せたが、元気なおじいさんという感じで、藤山一郎やディック・ミネの颯爽さやダンディぶりとは違う。残酷なはなしだが、過去の人という感じが子供ごころにもした。

中村錦之助と東千代之介が大ブレイクした『笛吹童子』を見たのはこの翌年だが、その冒頭、野武士の首領、月形龍之介扮する赤垣玄蕃に攻め滅ぼされる丹波の満月城城主丹羽修理亮がほんの一シーン出てくる。あゝ、河部五郎だわ、と母がつぶやいた。昭和ひと桁時代、母の娘時代のスターである。こうした例に、この当時しばしば出会ったものだ。流行歌手、映画スター、昭和二十年代とは、戦前と前後がまさに同居している時代だった。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です