随談第138回 観劇偶談(その67) 芝居ってなんだ?

三越劇場で『鶴八鶴次郎』を見ながら、ああ、芝居というのはこういうものだったんだな、といまさらながら胸を突かれた。一定の形式(いまはあえて様式とは言わない)と日常性に基づいた確かな写実とが、押しくらをしながら均衡と調和を保っている。古臭いようでいながら鮮度が落ちていないのは、形式と写実という相反するものが相せめぎながら、ひとつの様式にまで達しているからである。あとは、新派の演技者たちの熟達の技芸がそれを具現化する。

それにしても、こういう芝居をしているときの波乃久里子というのは、もう人間国宝になったっていいのではないだろうか。有楽座支配人の役の柳田豊など、人物とともにこの戯曲の時代そのものを切り取ってきたみたいな存在感をもって、いまそこにいる、といった風情である。生きながらの文化財みたいなものだ。

やや旧聞になってしまったが、7月末に東京芸術劇場で東宝現代劇の『恍惚の人』を見たときにも、やはり同じようなことをつくづくと思った。こちらは初演以来まだ二十年で、この劇によって老人介護の問題が提起された、いまも切実なテーマをもつ内容だけに、芝居の形式と日常性と写実とが、一層さしせまった緊張感とともに、劇としての均衡をみごとに作り出している。

主役の児玉利和をはじめ出演者全員が、かつて菊田一夫が芸術座などの現代劇路線を打ち出す一方で、それを支える演技者を育成するために作った「東宝現代劇」の俳優たちである。普段は、芸術座や帝劇などで、スター俳優たちが主要な役を演じる陰で、さりげない役をさりげなく勤めている俳優たちである。顔は馴染みでも、名前は知らないという観客も少なくないだろう。現に児玉も、主役を演じたのはこれがはじめてらしい。

しかし永年つちかった彼らの確かな写実演技は、じわじわと見るものの心を捉え始め、作のはらんでいる訴えは粛々と見るものの胸に染み入っていった。スター芝居にともないがちな自己主張も、また逆に、社会劇にとかくこびりついた過度なメッセージ性もなく、淡々としかし確実に訴えるべきものを訴えた。

もちろん、演劇はひとつではない。多種多様、いかなる形態も演技法も許容される。しかし『鶴八鶴次郎』を見、『恍惚の人』を見るにつけ、芝居というのは結局、写実にはじまり写実に返るのではないかと思わざるを得ない。どんな反写実も、超現実も奇想天外も、荒唐無稽も、写実を離れ切ることはできない。歌舞伎のはじまりが物真似狂言尽しであったように。シュールレアリズムのすぐれた画家であるほど、卓抜のリアリズムの技術を土台にしているように。

この前書いた『夢の痂』にしても、作者の天皇責任論の主張と演劇としての均衡がばらばらになりそうなぎりぎりで、何とかそれを繋ぎとめ、作者の訴えを見るものの胸に届かせることができたのは、核心の部分を演じる角野卓造と三田和代の演技が、練達の写実の芸を踏まえているからだ。もしふたりの芸がなかったら、作者が自身で講演会を開いた方がよかったということになっていたかもしれない。

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