随談第140回 観劇偶談(その69)映画『トランスアメリカ』

評判の映画『トランスアメリカ』を見た。女性割引の日だったせいもあるが観客の95パーセントは女性だった。女性への性転換目前の男が息子と対面するなどという話は男性向きでないのかもしれない。が、なかなか面白かった。

非常に面白かったのは、女優フェリシティ・ハフマン(不明にして私はこの大変な女優の存在をこれまで知らなかった)の演技であり、もうひとつは、アメリカ映画という一定のパターン(この非常にすぐれた作品といえども、そのパターンの約束事の中で作られている)に沿いながらでも、こういう映画が作れるのだなという感慨であり、ひいては、そこから敷衍される、型や約束事と劇のテーマや演出の関係という問題である。

ハフマン演じる主人公は、性同一性障害のために女性への転換を目前にしているという状況の中で、(弁慶ではないが)生涯ただ一度の女性との性交渉から生まれた息子と対面する破目になる。予期せぬ衝撃に呻きながら思わず股を開いて座り込んでしまったり、女になり切れない姿を演じるハフマンは、とうてい女優とは思えないほどだが、面白いのは、じつは父親であることを知らせないまま息子と旅を続ける過程で、女らしく装うときほど男であることが透けて見えてしまい、ヒッピーに車ごと一切を持ち逃げされてTシャツにジーンズの腰巻スカートという普段着くさい姿になってから、かえって女らしく見えはじめることである。

もちろんそういうことは、演出にも演技にも織り込み済みの緻密な計算の成果でもあるわけで、まだ父親とは気づいていない息子から、綺麗だ、お前とやりたいと真剣に迫られるところなど、まさに性の境界の狭間に揺れている、底光りのする美しさがある。(美しさ、といわねばなるまい?)トランスアメリカというタイトルは、おのずからトランスジェンダーを重ね合わせ、暗示するという仕掛けになっている。つまり、往年の有名なロマンス映画の題名ではないが、心の旅路、なのである。

ところで、さっきも言ったように、これだけの巧妙な仕掛けがありながら、この映画といえども、はじめに問題提起があり、途中それをめぐるドガチャガがあり、最後はめでたしめでたしという、アメリカ映画のお定まりパターンの定石に忠実に従って作られている。こういう風に作られていれば、アメリカの観客は、ああ、よかったねと家族や友人とほほえみを交わしながら映画館を出てゆくのだろう。ときにそれが鼻についたり、食いたりなく感じたりすることはあっても、この定石は、時代とともに次第に手が複雑になっては来ても、基本的にはハリウッド成立以来変ることはない。

つまり、それこそが「型」であり、アメリカ映画はまさしく「型の文化」なのであり、もうひとつ「つまり」をいえば、「型」の文化であるという点で、アメリカ映画は「カブキ的」なのだ。「型」を成立させるのは、一方ではストーリイ・テリングの巧妙さだが、半面、「型」があればこそ、巧妙なストーリイ・テリングが可能になるのだ、とも言える。

この映画を見ながらつくづく思ったのは、これだけの問題やテーマを持ち込んでも、呑み込み、咀嚼できる「型」の胃袋の強さである。

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