随談第143回 昭和20年代列伝(その6)

明治座で『テネシー・ワルツ 江利チエミ物語を見た。テネシー・ワルツばかりでなく、美空ひばり、雪村いずみの歌も合わせ、昭和二,三十年代のヒットソングが次々と出てくるのを聞くだけでも充分楽しいが、彼女らが出揃って娘盛りだった昭和28年ごろからしばらくの、横文字の歌というのは、その前とも、また後とも違う、いかにもひとつの時代を語っている。

前というのは、敗戦後そのままの、焼け跡時代である。後というのは、まあ結局はビートルズ以後だろう。その間の、あとから見れば中間の時代。しかしそれは、決して「過渡期」などという言葉で片付けてしまってはいけない、まぎれもなくひとつの時代なのだ。

(ビートルズをもって、ビートルズ前、ビートルズ後という風に時代を区分してしまう「史観」は、純音楽的にはともかく、世相とか人心とか時代感覚とか、社会やその時代に人生の掛け替えのない季節を生きた者の心までトータルに考える以上、たまたま遅く生まれてきたためにその時代を共有しなかった世代の傲慢というべきである。)

焼け跡時代は、笠置シズ子のブギウギは別とすれば、「ボタンとリボン」のバッテンボーみたいな、アメリカそのもののGI文化だ。それが一応過ぎて、講和条約が成立して占領軍が帰って、ひとつの戦後がとりあえず終わって、もうひとつの戦後がはじまる。暁テル子の「ミネソタのたまご売り」なんてのが聞こえてきた頃が、その切り替わり時だったろう。

民放が昭和26年の暮れにはじまって、ジョージ・ルイカーとか丹下キヨ子(いま挙げた三人がそうであるように、シズ子・テル子・キヨ子という風に片仮名に「子」だけ漢字の芸名が多いのも、この時期の特徴かもしれない。片仮名の部分がアメリカナイズの影を暗示する)といった司会者が、歌とクイズをつき混ぜたような、今でいう視聴者参加番組をはじめる。藤沢嵐子のタンゴが聞こえ出す。高英男が牝馬のような長い顔でシャンソンを歌う。ナンシー梅木のジャズが聞こえてくる。

美空ひばりの「お祭りマンボ」がお向かいの家のラジオから我が家に飛び込んできたときの情景は、いまでもありありと思い出せる。1952年、講和条約発効の日に、それまではけっこう結構な暮しも経験した鷺宮の家を引き払って、敷地面積からいうと十分の一ぐらいの、西巣鴨の安普請の家に引っ越して間もない、妙に青天続きの五月だった。(新聞の世相紹介記事風の言い方をするなら、メーデー事件と、ボクシングの白井義男が世界チャンピオンになった月である。)

大塚駅周辺はまだ焼け跡の印象が強く、池袋駅にくっつけるように、西武デパートが木造二階建ての、屋根にスレート瓦を乗せた仮店舗を作っていた。引っ越した家の狭い庭に内緒で運んできた植木を植えようと穴を掘ると、焼け跡ならではの瓦礫が出てきた。

それにしても、マンボという踊りが大流行したのはそれから三年ほどたってからの筈だが、もうこの時点で「お祭りマンボ」という曲名をつけた作詞者の先見性はたいしたものだ。やがて、追いかけるように「テネシーワルツ」と「ブルー・カナリア」が聞こえ出す。

私はちょうど、大人の世界が視野に入りはじめた年頃だった。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です