随談第144回 観劇偶談(その72)女師匠たちの坂東流

この夏は二度京都へ行くことになった。 9月7日、京都芸術劇場 春秋座で、「もうひとつの歌舞伎舞踊・女師匠たちの坂東流」という催しがあったので、それを見る(聞く)ために日帰りをしたのである。

八代目三津五郎の著書で、坂東三津江という女師匠の名前は知っていた。八代目の父の七代目三津五郎が明治39年に七代目を襲名して、三津五郎という名前を36年ぶりに復活したとき、三津江というおばあさんが、自分たちの家元ができたと喜んで訪ねてきた、という書き出しで、このおばあさんから三代目・四代目以来の坂東三津五郎のお踊りを伝えてもらったということとか、この三津江という人は、維新前は御狂言師として大名家の奥勤めをしていた、といったことを読んだ記憶はかなり明確にもってはいた。

しかし、たしか八代目もそこまでははっきり書いていなかったと思うのだが、この三津江さんが何と大正8年まで、99歳の高齢を保って健在でいたということを教えられてびっくりしたのは、随談第135回に書いた、7月末に亀治郎が京都造形芸術大学の春秋座で『奥州安達原』をやったのを見に行った折だった。芸一筋に生きた三津江自身は生涯独身だったようだが、養子夫婦に看取られ天寿を全うし、養子の末裔のもとで位牌もきちんと守られている。ただ芸界と直接の関係がなかったために、つい最近までくわしい事績が知られることがないままにきたのであるらしい。

七代目からいまの十代目にいたるまで、大和屋の家にはユニークな古典の舞踊が受け継がれていて、「山帰り」とか「うかれ坊主」とか、その一端が歌舞伎の演目として馴染みのあるものになっているが、ああした曲も、じつは、三津江をはじめとする女師匠たちが厳格に伝承していたものが、七代目に伝えられ、歌舞伎舞踊のレパートリイとして生きているのである。坂東流が、他の流派とひと味違う古風さと厳格さを持っているのは、このことと密接に関係しているのは間違いない。

つい先日、現十代目三津五郎が金沢で、坂東流に伝わる『京鹿子娘道成寺』を踊ったが、これもじつは、七代目が三津江から伝授されたものが原点になっている。他流にはない独特の振りがある。

この日の催しは、第一部が坂東流の高弟である坂東寿子、勝友、温子の三人の女流舞踊家による坂東流の特徴の実演をまじえての解説、第二部が現三津五郎と今尾哲也氏によるシンポジウム、第三部が前記三人の舞踊家による坂東流だけに伝承される珍しい曲『納豆売』の披露というもので(全体の企画・構成は田口章子京都造形芸術大学教授)、どれも興味深いものだったが、私にとっては、三津五郎の話の中で、七代目を通じて、三代目三津五郎の流れ(これが今回のテーマに直結する)と四代目芝翫の流れの両方が現在の大和屋の踊りのなかに入っていることなどが確認されたことなど、得るところ少なくなかった。松緑から、荒事は七代目を規範にしていると教えられたという話も、私としては密かに感じていたことが証明された欣快事だったが、ともあれこの夏の二度の京都行きは、どちらも大収穫だった。

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