随談第148回 観劇偶談(その73)第9回駒之助の会

紀尾井ホールで第9回になる竹本駒之助の会を聴いた。いうまでもないが、女流義太夫の第一人者である。

だが「女流義太夫」という断り書きをつけたのは、ごく一般的な紹介の仕方に従ったまでで、別にそんな限定をつけなくとも、義太夫に限らず、あらゆるジャンルの芸能での女性演奏家として第一級の人であるばかりでなく、素浄瑠璃、つまり文楽のように人形がつかず、義太夫だけを語る場合、女流といわず、駒之助ほど、気持のよい浄瑠璃を聴かせてくれる太夫は、いまいない。

今回は『良弁杉由来』いわゆる「二月堂」だが、ご本人がかねて念願の演目であったという。文楽の竹本越路大夫がまだつばめ大夫時代にみっちり教わったというが、言葉の捌きのよさが明晰さと同時に内容の含蓄へ通じるあたり、この浄瑠璃に限らず、両者には通じるところが多い。登場人物は良弁と母渚の二人きり、すべては言葉、言葉、言葉である。

文楽や歌舞伎だと、どんなに名手が遣い名優が演じても、結局は浄瑠璃の絵解きみたいなことになってしまい、結果として、あまり面白みのない芝居だということになりがちだが、歌舞伎の腹芸というのは、二重三重の綾をじっと肚に堪えながらその表と裏をにじませる芸であって、だから動きがほとんどなくとも、見る者の胸にずしりと来、二重三重の意味を読み解こうとするところに面白みがある。しかしこの「二月堂」の場合は、そういう意味での腹芸ではない。ただひたすら、親を思い、子を思う、その真情だけである。

これはやはり、聴くための浄瑠璃なのだ。が、それだけに、語る人の芸と、人間性にかかってくる。津賀寿の三味線は、入門20年(もうそんなになるのか!)を機に、皮を猫に張り替えたというが、気のせいか、音色がいつもと少し違うような感じもしたが、なに、事前にそんなことを聞かされていなければ、わからなかったかも知れない。いずれにせよ、いつもながら、よき孝行娘ぶりである。もちろん、芸の上の娘だが。

それにしても、いつもながら、この会の客種のよさは大したものだ。駒之助の芸をよしと見、愛する人がこのホールをいつも一杯にするだけいるのだろう。知名人の顔も多く見受けた。名は挙げないが、なるほどと思えるような方々だった。

前日の嵐の過ぎた快晴の午後、都心に位置するビルの5階のホールのロビーから、富士がひときわ高く、屹立して眺められた。曇りのない芸に雲ひとつない空。爽やかな一時間半だった。

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