随談第151回 観劇偶談(その75)幸四郎の髪結新三

歌舞伎座で幸四郎の『髪結新三』を見ながらいろいろなことを考えた。

まず思い浮かべたのは、憮然としたりエーッなどとつぶやきながら、どう劇評を書いてやろうかと思案しているあの人この人の顔である。

その気持はわからないでもない。われわれの記憶の中にある名優たちによる名狂言『髪結新三』の思い出と、この狂言この役はいかに演ずべきものであるかという常識から考えれば、幸四郎の新三はあきらかに規格外である。小粋な江戸っ子の風情を持つ、小手の利いた役者がやるものという通念から見れば、幸四郎はそのどれにも当てはまらない。

実を言えば、かく言う私も、見る前はそれに近いことを考えていた。しかし目の前に展開する幸四郎の新三を見ているうちに、幸四郎は何故新三をやろうと考えたのかということを思うようになっていた。幸四郎であれ誰であれ、「彼」はこの役この演目をどう演じようとしているのかをその舞台から忖度するところから始めるのが、批評をするときの私の基本的なスタンスである。もちろん、歌舞伎といえどもである。

(昔の贋阿弥や鬼太郎みたいに、武部源蔵や熊谷が揚幕から出たとたんに「勝負あった」と切り捨てるような批評も、(そんな芸当がもし本当にできるなら)もちろんあってもよい。歌舞伎にはそういう一面も抜きがたくあることもたしかである。しかしあるときから、私は、そういう批評の仕方に疑問を持つようになった。が、その話は別の折にしよう。)

いまさら言うまでもないが、新三という男はじつは江戸っ子ではない。上総無宿の入墨新三である。近県からの流れ者である。江戸のバルザックでありディケンズである黙阿弥は、バルザックやディケンズが19世紀のパリやロンドンの下層民の悲惨な生活を熟知して『人間喜劇』や『オリバー・ツイスト』を書いたように、しかしもう江戸も過去の夢となってしまった明治になってから、『梅雨小袖昔八丈』を書いたのだ。新三を演じるのに、勘三郎二代や先々代松緑や菊五郎みたいでなければいけないという法はない。

六代目菊五郎は、大正の市村座時代の若き日にさまざまな黙阿弥狂言にトライしている。成功を収めたものは、やがて神品として次代に伝承され、成功しなかったものは、たとえば『村井長庵』のように、後世に伝わらなかった。つかまえどころが見つからなかった、と長庵について菊五郎は言っている。『梅雨小袖昔八丈』をいま見るような場割りで小粋な江戸っ子の芝居として再構成し、『髪結新三』を完成したのは、大正という時代の空気の中で大正という時代の観客を相手にした、大正という時代の子である若き名優六代目菊五郎だったというわけだ。(もちろん、平成の人間が見ても快適である。)

幸四郎の新三は結構面白かった。しかし私は、新三よりむしろ弥太五郎源七に、通し狂言『梅雨小袖昔八丈』として挑戦してもらいたいと考えている。新興勢力の新三と旧世代の源七と、二人の主人公を対照させて江戸の明暗を描いた黙阿弥の劇的世界が出現するはずだ。新三には菊五郎をつきあわせればいい。

そんな大仕事は厄介だというなら、代案がある。久保田万太郎の『弥太五郎源七』なら、歌舞伎座ですぐにもできるだろう。

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