随談第159回 観劇偶談(その76)松たか子・寺島しのぶ新派入り?

というのはもちろんウソです。?マークが半角にしかならないので、本当はもっと小さくしないと、スポーツ紙の大見出し風にならないのだが、まあこれで我慢してください。

と、ここまでは冗談。しかしこんな冗談からでもなにかの拍子で駒が出ないでもないかと、淡い望みでもかけたくなろうというものだ。冗談ではない。このままいったら、新派は、現在の八重子・久里子の女優人生とともに消滅するのを待つしかない。

今月、新橋演舞場で水谷八重子・波乃久里子に園佳也子(と笹野高史)が加わって『三婆』をやっている。演舞場で今年たった一回の新派公演である。それも、打ち日は二十日間だ。二十日間でもなんでも、とにもかくにも「新派の牙城」新橋演舞場でせめて一回、新派の公演をやったというそれだけでも、関係者の心意気というものかもしれない。

どうしてこういうことになってしまったのか。理屈を言い出せば切りがないが、要するに、八重子・久里子のあとを背負って立つ人材が育っていないからだ。何故育たなかったのか。それとも、育てなかったのか。内部の事情は一切知らないが、とにかく、これが現実である。殷鑑遠からず、新国劇が滅びてしまったのも、辰巳・島田のあとが育たなかった、あるいは育てなかったこと以外にはない。「れば」や「たら」は抜きにしての話である。

八重子にしても久里子にしても、新派と限らず、現代の演劇界全体を見廻しても、ざらにはない役者である。名優といったって然るべきである。去年九月の『京舞』を見て、つくづくそう思った。ふたりに限らず、あれほど高度な舞台空間を作れる演技集団なんて、そうあるものではない。喜多村・花柳はおろか初代八重子・翠扇すら知るはずのない若手たちでも、ちゃんと新派らしい匂いのある芸をしている。若い女優たちが、芸者衆の出の衣装で揃ったときの壮観など、どう逆立ちしたって、新派以外の女優では、まさにプロとアマの差がある。

さりながら、八重子にしても久里子にしてもいつまでも若いわけではない。またふたりだけで、新橋演舞場を年に何回も満員にできなくったって、無理もないことである。というわけで、表題に掲げたような暴言になる。

松たか子と寺島しのぶが新派に入ってごらんなさい。他人もうらやむ強力劇団に変貌する。もちろん、新派古典も勉強してもらうが、そればかりにこだわることはない。いま現にやっているような新しいものもどんどんやればいい。彼女らが、新派女優としてそれをやれば、それも新派の演目になるのである。そうすれば、世人の固定観念にあるような、新派って歌舞伎ほど古典でもなく中途半端に古い芝居をやるところ、というつまらぬ偏見も、論拠を失ってしまうだろう。いきなり加入というのが、決心がつきかねるなら、「参加」という名目にしたっていい。菅原謙二だって安井昌二だって、はじめは参加だったのだし、それに、昔の菊五郎劇団における海老サマ時代の十一代目団十郎みたいで格好いい。

と、ここまで話がきたら、さらに倍する暴言を吐こう。歌舞伎の家に生まれて女優になりたいと思う女の子には、新派女優になることを義務づけるというのはどうだろう?

ジョウダンからコマが出る日を待とう。

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