随談第161回 随談随筆(その4)髭を立てる

ひさしぶりの随談随筆である。

日ハムの小笠原が巨人に移籍がきまって、巨人入りの噂が流れたときから囁かれていた通り、トレードマークだった髭を剃り落として、野武士から勤番侍みたいにのっぺりしてしまった。心機一転、自分の意志で剃ったと本人は言っていたが、なんだかもう、先が見えてしまったような感じで、風船がしぼんでしまったみたいな軽い失望感がある。わたしは自分では髭をはやす気はないが、小笠原の髭は剃るべきでなかった。

髭というと思い浮かぶ話がふたつある。

ひとつは古い「サザエさん」で、いつも来る集金人(だったかな)が、あるとき鼻の下にちょっと立派な髭をつけて現われたら、サザエさんもおかあさんも別人かと疑って信用しない。集金人がやむなく髭を剃ると馴染みの顔があらわれる。クスクス笑いながら金を払うサザエさんに、集金人が「髭をたてたんです」とシブイ顔で言う表情が絶妙だった。「髭を立てる」という、近頃あまり聞かなくなった表現を、小学生だったわたしは、この漫画でおぼえたのだった。

もうひとつは、大仏次郎の「鞍馬天狗」である。尊攘運動が盛んな当時の京都で、同志たちの行動が新撰組など敵方に筒抜けになっているらしいという噂を聞いた鞍馬天狗が、やがて同志を売っていたスパイを見つける。スパイは、天狗がふとしたことから知り合い、たがいに好意をもちあった、小さな田舎町からでてきた、腕も立ち、人柄も純朴と見えた人物だった。ところで、この人物が顔中いっぱいに無精髭をはやしている。小説の最後に、故郷(くに)に帰るという男を見送って、鞍馬天狗はこう言う。

「君、髭を剃りたまえ」

無精髭は、人を惰性に流させる。社会活動家によくある無精髭男が、大仏次郎は嫌いだったに違いない。自分の奉じる崇高な運動に比べれば身なりなどはどうでもよい、という思い上がりが、事をあやまらせるのである。

そこで思い出した髭にまつわる第三の話が、かつて二枚目スターの代表のように思われていたゲイリー・クーパーに、さる人が男のおしゃれの秘訣は?とたずねると、ウムと一瞬考えたクーパーは、毎日かならず髭を剃ることだ、と答えたというのである。もっともこの話、当時の髭剃りというのは、まず蒸しタオルで湿りをくれておいてからシャボンを泡立てたのを塗りたくり、それから剃刀を使うという、手間のかかるものだったことを知っておく必要がある。それを毎日必ず繰り返すというのは、一種セレモニーに似てくる。セレモニーというものは、ある日突然、これを放擲したらなんとすがすがしいだろうという誘惑に駆られるものなのだ。

小笠原には髭を剃るべきでなかったと言っておきながら、矛盾したことを言うようだが、じつはそうではない。毎日綺麗に髭を剃るのも、髭をたくわえる(という表現もかつてあった)のも、惰性に流されるのと正反対の意志的な行為だという点で共通する。髭は「生やす」のではなく、「立てる」か「蓄える」かするものなのだ。巨人に入って髭を剃った小笠原が、髪を切られて怪力を失ったサムソンのようにならなければさいわいなのだが。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です