随談第174回 観劇偶談(その82)ふたつのイギリス映画

イギリス映画で評判がいいのがあると、やはり見たくなる。このところ続けて二本見た。どちらも時代設定は第二次大戦寸前の1937年と38年。イギリスに限らず、第一次大戦と第二次大戦の間の小春日和のヨーロッパというのは、文明の終焉の匂いがそこはかとなく漂うのが、何ともいえずいい。奇しくもどちらも劇場が舞台だ。

『ヘンダーソン夫人の贈り物』と『華麗なる恋の舞台で』の二本。

『ヘンダーソン夫人』は、大富豪の夫を亡くした老未亡人が、そういう立場になった上流婦人のすることが退屈でたまらない、という発端がジュディ・デンチのちょっと人を喰ったような貫録と相俟って、ふと『地下室のメロディ』の発端のジャン・ギャバンの老ムショ帰りを思い出した。そんなつまらないことで残りの人生を使いたくない。考えてみれば、夫を亡くした老女と、刑務所を出た老盗っ人というのは、老年に至って自由を得たという意味で重なり合うかもしれない。

前の大戦で戦死した息子の墓(参りに小型飛行機で北フランスの戦没兵の墓地まで一人で飛んで)行く途中で、売りに出ている小劇場を車窓から見つける、というのが絶妙の伏線となってラストで利いてくるというドラマの作りもいい。お定まりのようでいて、ちゃんと(まず確実に)泣かせるところが憎い。ヌードというものが、この時代のイギリスではいかにお堅く扱われていたかがわかるのもおもしろい。日本でも戦後初のヌードショウは額縁ショウだったというのを思い出す。

大臣を若いころからの友人として持っていて、その大臣が、むかしの弱虫のちび助だったころを知られているヘンダーソン夫人には頭が上がらない、というあたりのユーモアはいかにもイギリスならではだ。『ダロウェイ夫人』にも似たようなところがあったっけ。大臣をやっている役者もいい。いかにも当時のイギリスの上流人だ。名前がチェンバレン。あのチェンバレンか?

『華麗なる恋の舞台で』は、邦題だけ見たらあまり見る気にならない。こういう、いかにも「女性向け映画」でござい、という題名をつけるセンスがいまだに絶えずにいるというのは、映画配給会社の古さの表れと見るほかはない。原名はヒロインの名前からBeing Juliaというのだが(サマセット・モームの原作の翻訳の題名は「劇場」となっている)、ジュリアという中年のさなかにいるベテランの舞台女優の前に、いかにもソンケイしてますという顔であらわれる青年とその愛人の思いがけない策謀というのだから、つまり『イヴの総て』なわけだが、それにみごとに背負い投げを喰らわせて、ジュリアはやっぱりジュリア、ジュリアがジュリアであるために、ジュリアであること、というわけだろう。

とにかく役者がよく、世界大戦前夜のロンドンの匂いまで感じさせる演出もいいが、なんといってもジュリアをやるアネット・ベニング(なんて女優、いままで、じつはろくに視野に入っていなかった)の、チャーミングという言葉はこういう女のためにあるのだというほどのチャームに結局は尽きる。最後にひとりでビールで祝杯を挙げる風情が、実にいい。喜びはひとりで味わうものナノダ。

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