随談第176回 観劇偶談(その83)再論・菊五郎よ由良之助を

今月の「一押し」には幸四郎の横川の覚範じつは能登守教経を挙げたが(この人の実悪系の役の傑作として「毛剃」をうっかり書き落としたので、この場で追加しておく。かなり久しくしていない。染五郎の惣七でやればいいのに!)、今月の『千本桜』を通して見てしみじみ思ったのは、菊五郎はいまが第二の盛りの季節なのだなということだった。

第二の、といったのは、もちろん第一があればであって、それは昭和六十年前後の数年、彼本来のフィールドである二枚系の役々に尾鰭がつくと共に、僚友先代辰之助の不慮の事もあって、それまで「想定外」にあった立役の数々をこなし、相当の成果を収め、当世としての「兼ねる」役者に見る見る成長(成人というべきか? つまりあの時点で、菊五郎は青臭い若手花形から、第一線級の大人の役者になったのだ)していった、あの「季節」のことである。それに次ぐ、第二の春がいま、というわけだ。

今月の忠信は充実していた。知盛や権太と違って、この役は「鳥居前」「道行」「川連館」と三つの場にそれぞれ異なる役柄として登場する。「川連館」は二人忠信だから都合四役ともいえる。評は『演劇界』に書いたからそれを読んでいただくとして、とりわけ、鳥居前の役者ぶり、「四の切」の本物の忠信の生締め役の立派さは目を瞠った。「道行」でも機嫌よくつとめている風情が一種の風格さえ感じさせた。たまたま私の見た日、幕切れに花道から放った編笠が、気流のせいか仁左衛門の藤太の前でついとワープしたのを、仁左衛門がまた、ダイビングキャッチというと大袈裟だが体を伸ばして受け取ったのが、たまたまその直前、かのヤンキースの松井が塀際のフライをグラヴを伸ばして好捕したのがニュースになったばかりでもあり、やんやの喝采となった。ふと花道の菊五郎に目をやると、真面目を装った顔の下で笑いをかみ殺している風情である。近頃なかなかよき光景であった。

考えてみれば、先月の判官と勘平といい、正月の『五十三駅』の復活といい、昨秋の『先代萩』で仁左衛門の八汐、三津五郎の沖の井と三幅対の中心をなした安定感といい、いやそう言っていけばこの両三年来の菊五郎の舞台ぶりというものが、個々のどの役というよりも、総体としてひとつの重みとなって胸の底に居座っていることに気がつく。

菊五郎という人は、そういう人なのだ。思えば父の梅幸もそうだった。決して皮肉でいうのではなく、目の覚めるような快打一番、場外ホームランを放つというより、長いスパンで安定した強打者ぶりを発揮する、王・長嶋より、野村とか落合のようなタイプなのだろう。(野村のホームランというのは、ポーンと上がった高いフライがスタンドにぽとんと落ちるという風情だったっけ。しかし終わってみれば、王は別とすれば、第3位以下を遥かに引き離して通算本塁打を打っているのだ。)

本題を語る余地が少なくなってしまった。菊五郎に「七段目」の由良之助を、というのが私の年来の持論であって、和実の由良之助こそ「七段目」の由良大尽にふさわしいと信じればこそである。再論と題したのは、九年前「21世紀歌舞伎俳優論」として『演劇界』に連載し、『21世紀の歌舞伎俳優たち』と改題して上梓した本に夙にそのすすめを書いたからである。更なる風格を加え第二の春の只中にいるいまこそ、時こそ至ると信じるが、如何?

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