随談第179回 わが時代劇映画50選(11)『怪盗と判官』1955、大映、監督・加戸敏

ぼちぼち雷蔵映画にとりかかろう。もっとも、あらかじめ断っておいた方がいいが、いわゆる名画や眠狂四郎シリーズは(いまのところ)やるつもりはない。あまり評判かまびすしい括弧付き「市川雷蔵」は、いまの私にはちょっと距離がある。私にとっての雷蔵はリアルタイムの記憶とともにある、「名優雷蔵」の原風景としての雷蔵である。

さて『怪盗と判官』だが、ある意味ではこれが私にとっての雷蔵の原点である。格別な名画でも何でもないし、もちろんこれが初見参でもない。私の「若き日の雷蔵」イメージをもっとも典型的にあらわしている、という意味で、原点なのだ。正確には雷蔵映画というより、同時に売り出した勝新太郎とに二枚看板で、雷蔵の遠山金四郎と勝の鼠小僧が互いにそれと知らずに意気投合して弥次喜多道中をするという明朗時代劇だが、雷蔵としては同じ年に『次男坊判官』を先に撮っているから、金四郎役者にという路線もあり得たのかもしれない。当時は遠山の金さんといえば千恵蔵が専売特許にしていたから、それに対するフレッシュな青年金四郎という売りだったに違いない。

もっともこの映画では、名探偵としての謎解きもなければ桜吹雪を見せて悪党を恐れ入らせることもない。金四郎としては冒頭に茶屋遊びをしていて鼠と出会うところ、わざと放蕩に明け暮れて継母の胤である弟に家督をゆずって出奔するところ、最後に奉行になって鼠小僧の大捕物と市川小太夫の偽鼠の罪状を暴くという「額縁」部分だけで、中の餡子のおいしいところはもっぱら弥次さんで見せる。つまり金四郎で時代、弥次郎兵衛で世話と使い分けるわけだ。そこらの押したり引いたりをさりげなくやって見せるあたりが、雷蔵がはじめから、老成というか大人の役者であったところで、ムキになって強調してみせる錦之助のカワイさと好対照であり、この対照が、もしかすると二人の芸だけでなく役者人生そのものまで、暗示・象徴しているようにも見える。(『切られ与三郎』でも、多々良純の蝙蝠安と連れ立っての源氏店の場面で、芝居と映画の違いをさりげなく演じ分けている。錦之助なら、良くも悪くもああはやるまい。)

勝新太郎はこのころはまだ後年の「勝新」とは別人のごとく、黒目勝ちのむしろかわいい感じをチャームにした「二枚目半」(という用語が当時映画界ではよく使われていたっけ)である。この二枚目半の「半」というのは、三枚目にかかっているという意味だが、この「半」の部分が後年の勝新を生み出す要素になったのである。(これ、勝新太郎論として欠かせぬところだと信じる。)

長谷川裕見子が東映に移ったがまだ大映にも仕事が残っていたというタイミングで、出番は多くはないが、「義賊」の意味を金四郎と鼠小僧双方に考えさせるポイントになる役をつとめる。脚本としてもミソ、演技としても彼女を看取る場面の雷蔵・勝ともにいい。いま見直すと、雷蔵ならではのリリシズムがリアルタイムで見た印象よりなかなかオツである。琵琶湖のほとりで石投げをする場面など、雷蔵ならではの香りがある。お定まりだが気のいい女賊を阿井美千子、それに清水谷薫なんていう(忘れてた)新人女優が出ている。思えば阿井美千子という人も、大映時代劇を語る上で欠かせない人だ。

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