随談第180回 今月の歌舞伎から(その1)襲名の「口上」に涙ぐんだ

『演劇界』が休演に入った、その補いというのでもないが、こういうタイトルで新企画を始めることにする。劇評というほど大袈裟なことでもない。また網羅的に扱うこともしない。とくに触れておきたいこと、一言ありたいことなどなど、「一押し」とどう棲み分けをするかなど工夫もいるが、あくまでも「隋談」の内、回数も随時ということにしよう。

さて錦之助襲名のこの月、その「襲名披露口上」が格別な感動があってよきものだった。坂田藤十郎や勘三郎のような大物俳優の襲名の口上とひと味違う、最近ちょっと忘れていた新鮮な感動である。

もっとも、舞台にずらりと並んだ人数からいうと、藤十郎や勘三郎の時よりずっと多い。舞台下手寄りは親戚一同、しかもその多くは子供たちである。大元は三代目時蔵、その孫とひ孫たちだ。三代目時蔵は野球チームができるといわれたほどの子福者(という言葉、少子化とともに古語になってしまった)だったのに、四代目が早世し、錦之助と賀津雄(嘉葎雄という難しい字に変えたのはかなり後のことだ)が若くして映画に行ってしまったりで、歌舞伎界にひとりもいなくなってしまうという運命の皮肉に見舞わる。それが孫、さらにはひ孫の代でこうして、子福者三代目時蔵の夢が甦ってきた感がある。小唄好きだった初代吉右衛門が、上機嫌なときに唄ったという「ひいじいさん、ひいばァさん、おじいさんにおばあさん、おとっつァんにおっかさん、おじごにおばご、息子と娘、お兄さんに弟御、姉に妹、孫ひこやしゃご」という自作の小唄を思い出した。(こういう言葉にも注釈が必要な時代だが、「ひこ」は孫の子、「やしゃご」はそのまた子である。)

信二郎の新・錦之助は、二歳のときに父を亡くしたから顔も覚えていないという。そのことを、一座している年配の諸優はみな知っている。ことさらなことは言わないが、おのずから、それが懇篤な言葉になってあらわれる。先代の思い出話ひとつ語るにも、ひと通りでない思いがこもる。普段はこういうときあまり饒舌でない芝翫が、いつにない長話をしたのも、その人柄をもしのばせて心に染みた。いまの師である富十郎の、先代とは「ただひとりの親友」という言葉には、取りようによっては不用意とも取られかねない、迸る思いが察しられた。(これぞ富十郎である!)それにしても、これだけ大勢が並んでいて、先代より年嵩なのは、もうひとり雀右衛門ぐらいなのも、時の移ろいを改めて痛感させる。

信二郎といえば、先代勘三郎が『法界坊』の通しを国立劇場で出したとき、永楽屋の丁稚を、たぶんはじめての大役であろう、やっていたが、勘三郎が笑わせるものだからセリフが言えなくなってしまい、後ろの席の紳士が「あの子役はダメだなあ」と呟いたのを思い出す。その折ロビーで、まだ中学生ぐらいの時蔵が、母堂(つまり四代目未亡人である)をエスコートするように歩いていたのが、今なお瞼に焼きついて忘れがたい。その姿が、時蔵さんは弟思いで、という口上の中で誰だったかの言葉とともに私の中で甦った。

新・錦之助は、とりわけ「角力場」の放駒の幕切れ、思い切り大きく足を割って低く体を沈めてお定まりの形に決まったとき、白面が桜色のように紅潮するのが、役の性根と相俟ってじつに美しかった。この花こそが、錦之助の身上だろう。

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