随談第185回 今月の歌舞伎から(5) 附・今月の一押し(その12)

錦之助襲名ということで、萬屋一門の若い俳優たちが、「口上」の席など、中村屋一家と播磨屋も合わせれば中央から下手側を独占する形でずらりと居並んでいる。とりわけ、隼人と種太郎の姿に目を奪われた。

隼人はよくも似たもので、祖父(と、四代目のことを書くのはなんとも妙な気持ちがする。四代目時蔵というよりむしろ、先代の「芝雀」という名こそ、私のなかの「その人」のイメージにいちばんしっくり来るほどなのだから)と父と、三代にわたってこれほど、顔立ちだけでなく、その持っている雰囲気まで、まるで一子相伝とでもいうかのように伝わっている例というものは、そうあるものではない。

親子というものは、あんまりそっくりだと、他人から見るときはちょっと笑いを誘われたりするものだが、隼人の場合は、『菊畑』の腰元白菊の姿で登場したときは、むしろ涙をさそわれるのに近かった。こんなに可憐な若女形ぶりというものは、そうざらにあるものではない。(もっとも『角力場』では取的の閂になるのだからおどろく。)

種太郎は、さすがにもう子供の域を抜け出して、役者としての輪郭を描きはじめている。開幕舞踊の『春駒』に少年茶道の役で出てきたとき、目をみはった。幼さを残しながらも、すでにある種の雰囲気を漂わせている。『二人道成寺』の所化のような役をしてさえ、先輩たちの中に埋没してしまわずに、その身体から発するものが、存在を主張している。何もわざわざ目立つようなことをしているのではない。むしろ本人はまだ無自覚かもしれないが、役者としての存在感の核になるものを備えはじめているのだ。これは、いままで見たときには、べつに感じなかったものである。昨秋の『元禄忠臣蔵』の大石主税が、ひとつのポイントになったのか。(それにしても、梅枝が姿を見せなかったのはなぜだろう。せめて口上だけでも出ればよかったのに。)

ところでこの開幕劇『當年祝春駒』に、私は思いもかけず心を惹かれた。じつに清新の気に溢れている。一日の観劇の扉を開く一幕として、まことにすがすがしい。

獅堂の五郎は、白塗りに剥身の隈がよく乗って、顎のしゃくれた具合といい、こういう扮装をすると、河内屋と声を掛けたくなるほど、死んだ延若にそっくりだ。やはり、捨てがたいものを持っている才幹なのだ。自他ともに、いまという大切な時を大事にしてもらいたいと切に思う。

勘太郎が十郎のような役をしっくりと身に添わせていることにも感心した。若手が五郎で喝采を浴びるのは、比較的やすいことだが、いまの若さで十郎をしっかりとつとめる勘太郎を二十年後、三十年後を見てみたいものだ。七之助の舞鶴もいい。神妙につとめながら、存在感を失わないところに非凡さを感じさせる。

そして、歌六の工藤。いつも副将格に置かれがちな役回りだが、こうした顔ぶれの中で当然のように座頭役をつとめると、見事に工藤になっている。どうして、ニクイ役者ではある。プロフェッショナルであり、播磨屋一族の血の濃さを感じさせる役者である。

というわけで、今月の一押しは歌六を頂点とする『春駒』一幕としよう。

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