随談第187回 観劇偶談(その86)新国立劇場『CLEANSKINS/きれいな肌』

新国立劇場の『CLEANSKINS/きれいな肌』に感心した。アジア系英国人作者シャン・カーンの新作、世界に先駆けての初演である。「国際演劇人交流」という新国立の企画で、これまで世界の現代作家の書き下ろし上演を続けてきた中で、今度が断然いい。

作者はパキスタン系イギリス人というが、場面はイギリスの地方都市の貧しい公営住宅の一室のみ、暗転で局面を仕切るという手法で、人物も父親不在の家族、母親と息子、そこに家を出ていた姉娘が帰ってくるという三人のみという設定。地味なことこの上ない。

息子は、熱心にやっていたサッカーに挫折したとき精神的に救ってくれた人物を尊敬し、その男が進めている反イスラムのデモに参加することに、せめての生きがいを見つけている。そこへ突然帰ってきた娘がなんとイスラム教徒になっていて、不在だった父がじつは、母親から聞かされていたような白人ではなく、イスラム教徒のアジア人だったということを明かすというのが、筋というなら筋である。舞台はほぼ三人の罵り合いに終始する。「世話狂言」として、もっともしんどいタイプである(はずだ)。ところが、不思議にも、そうはならない。いや、しんどいには違いないのだが、目を覆い耳をふさぎたくなるような不快感とは無縁である。そこが、不思議であり、魅力でもある。

このテーマは、常識的には、まず大方の日本人の苦手とするものだろう。大方はイスラム音痴で、今日のグローバルな問題の相当部分をこの問題が占めていることは知ってはいても、正直なところ、肌に感じて身につまされるということには、なりにくい。しかし作者は、そんなこと(を知ってか知らずか)には頓着せず、母子三人にすさまじいトーク・バトルを展開させる。それが見事に、イスラム音痴であるはずのこちらに届く言葉になっている。

もちろん訳者の小田島恒志の功績でもあろうが、それ以前に、作者の戯曲の言葉としての力が物を言っている。イスラム教徒がヨーロッパの、イギリスの社会で置かれている状況についてほんの貧しい認識しか持たない者にも、「差別」という一語をテコに、すくなくとも3時間のドラマの世界を凝視し、耳を傾け続けさせるだけの、説得力をもっている。無手勝流の勝利というべきか。あるいは、自分の戯曲的世界を信じて揺るがない作者の無垢な大きさに帰すべきか。訳者の小田島恒志が作者シャン・カーンのユーモアということを言っているが、おそらくそれが正解なのであろう。つまり、作者はよき理解者をよき訳者に得た、ということもまた、言えるわけだ。(ここで「普遍性」という言葉を使ってしまえば楽なのだが、それはちょっと留保すべきだろう。)

三人の役者もいい。息子役の北村有起哉も母親役の銀粉蝶も、冒頭間もなくは、近頃よくある手の、鉄砲玉のようにセリフを投げつけ合い、一見それがリアリズムでもあるかのように(自身も信じ、他にもそのように)錯覚させるが、じつは現今の演劇界の流行のスタイルでしかない類型芝居かとやや失望させたのだが、娘役の中嶋朋子が登場したあたりから、そこから突き抜けて、ただ事ならないものを感じさせ始めた。しかしそうさせたことといい、また、その声を魅力あるものに感じさせるセリフの説得力といい、殊勲の第一は中嶋に帰せられるべきだろう。

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