随談第189回 今月の歌舞伎から(その6)二つの新作と二人のバイプレーヤー

今月は新橋演舞場と歌舞伎座と両座から、双方合せ鏡にして眺めてみよう。

両座ともに新作が出ている。演舞場は、吉右衛門の鬼平だからむしろ昼の部の眼目の演目である。「鬼平犯科帳」から「大川の隠居」、歌舞伎座は昼の部の開幕で「泥棒と若殿」。どちらも、池波正太郎に山本周五郎という原作小説からの劇化である。もっとも「泥棒と若殿」の方は、新作物といっても三演目、筋書の上演資料を見ていてにわかに記憶がよみがえった。再演のを見ていたのだった。

去年、中村源左衛門になって死んだ中村助五郎が、さらにその前名の山左衛門時代、主役に抜擢されるというニュースを知って、一幕見で見に行ったことがあったが、あれがそれだったのだ。ざっと30年前、萬屋錦之介公演で、若殿役の中村嘉津雄を相手の大役だった。当時源左衛門は、有吉佐和子の創作劇に声をかけられたり、彼の役者人生の中での華やいだ一季節だったのだ。

(それにしても、源左衛門の後を追うように四郎五郎までいなくなってしまうとは。勘三郎一門もとんだ不幸つづきだが、偶然にもこの月の演舞場に「法界坊」が出ている。「〆このうさうさ」のくだりを見ながら、ひそかに四郎五郎の冥福を祈った。あの、桜餅の折詰を駕籠に見立てて「〆このうさうさ」を鸚鵡でくりかえす役は四郎五郎の傑作だった。)

さてその「泥棒と若殿」は、山左衛門の泥棒以外はほとんど記憶になかったが、今度の、三津五郎の若殿に松緑の泥棒というコンビで見ると、結構面白い。三津五郎のセリフの巧さについ引き込まれるのと、松緑の仁に合った好演とで、なかなか見られるのだ。 だがそうであればなおさら、この作の弱点も見えてくる。

若殿という身分の者と、泥棒にでもなるしかないしがない身分の者と、人間としての自己を実現しようとすれば、結局は、それぞれの「分」(つまりそれが「自分」である)の中で実現するしかないという、山本周五郎らしい辛口の人間認識がこの原作小説の根底にあるに違いないが、そう気づいたのは、三津五郎の卓抜なセリフの力によってである。だが矢田弥八の脚本は、そこをもっと甘口の人情劇に作ってある。そうすると、秀調のやっているあの重役の説得だけで、われわれ観客も納得しなければならないというのにはちょっと無理がある。同時に、秀調以下の若殿擁立派の家臣たちの行為は、随分と持って回ったあざといものになってしまう。

(ついでだが、対立派の重役の名の滝沢図書助を「としょのすけ」と言っている。この名前は「ずしょのすけ」と読むのが普通だが、それとも、何か根拠があるのだろうか?)

「大川の隠居」はなかなかいいと思った。これも吉右衛門と歌六の二人の応酬で見せる(聞かせる)芝居だが、こちらは、池波正太郎の原作を越えて歌舞伎の脚本として練り上げてあり、ふたりの苦味の利いた芸とよく反りがあっているのが成功の因である。歌六の老盗賊が鬼平の枕元に忍び込んで親の形見の煙管を盗むという行為自体が、話としても面白いし、それをめぐるふたりの意地の張り合いが大人の芝居としても面白い。それにしても動き回る芝居がもてはやされる昨今、どちらもセリフの芝居であるのが興味深い。

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