随談第190回 観劇偶評(その87)文楽ばなし・住大夫の「杉の森」

この月の文楽は「絵本大功記」の昼夜の通しというちと渋い演目だが、そのお陰で住大夫の「杉の森」という傑作に出会う幸運に恵まれた。これぞ天の配剤。まず単独で出ることはないであろう段だからである。

ここに至るまでは、正直なところ、やや辛抱にも耐えなければならなかった。こういう折でもないと滅多に見られない場面を見る興味もある一方、所詮はブッキッシュな意味での興味以上のものにはならないし、初日のせいもあるのだろうが、やや生煮えの感や、演者の衰えの感もある演奏もなくはない。咲大夫の「妙心寺」にやや渇を癒したのがせめてもといえた。

住大夫も高齢である。このところ、腕に年は取らせていないとしても、さすがに声と、それに伴なう艶に、以前の潤いを求めることは、もうむずかしいかと思わせられる舞台がこのところ続いていた。こんども、「尼ケ崎」は島大夫と十九大夫にゆずっている。が、結果的には、それがわれわれに幸運をもたらしたのだ。

浄瑠璃とは、人物と情を語るということに結局尽きるとすれば、今度の住大夫はまさにそれである。肩の力というものがまったく抜け、重成、孫市、雪の谷、慶覚、重若丸といった人物たちをくっきりと、またしっとりと語り分け、それぞれの情を、過剰でも過小でもなく、ああでもこうでもなくそう語る通り以外にはないというところを、おのずからそうなったという風に語る。円熟というべきか、それをも越えた境地というべきか。一語一語、一音一音が、なんの無理もなく語られ、何の無理もなくこちらの胸に届いてくる。1時間25分という時間を、われわれはすこしも長いと思わず、また少しも疲れたとも思わずに聞いた。一音一音、一語一語がきわめて明晰であったからである。

これまでも、住大夫の名演というものは幾度となく聞いてきたが、この「杉の森の段」の住大夫は、それらのどれとも違う。いまの、この境地に至ってはじめて到達した芸のあり方なのであろうと思わせる。この「杉の森の段」は、竹本住大夫晩年を飾る傑作といって間違いない。

その他では、さっきも言った、「妙心寺」を語った咲大夫と、「尼ケ崎」の前段を語った嶋大夫がさすがというところを見せた。「尼ケ崎」というと、かつての津大夫のような剛直豪腕の大夫の持ち場のようについ思い勝ちだが、もうひとつ前の「夕顔棚」(津駒大夫が寛治の好リードでわるくない)にせよ、光秀が夕顔棚のこなたから現われ出でるまでは、三世代の女三人に前髪の若衆の織り成す、なるほど、艶語りの大夫の持ち場ともいえるのだ。

三業それぞれ世代交代のはなはだしい中でも、人形陣の様変わりには改めて感じ入るが、この場ばかりは、文雀の皐月に蓑助の操、紋寿の初菊とそろい、勘十郎の光秀はいまやこの手の役は他にいないし、十次郎の清之助も殊勲賞ものだし、やっぱり見た目の厚みと、大夫三味線の厚みと、相俟ってこその文楽という、しごくアタリマエのお話である。

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