随談第194回 相撲・野球随談

千秋楽の白鵬朝青龍戦に堪能した。がっぷり四つに渡り合う相撲の醍醐味というものを、近頃滅多に味わうことがないが、去年の名古屋場所千秋楽の一戦にせよ、これからは彼らによって四つ相撲の面白さを楽しめそうだ。突っ張り合いから右四つになって、まず朝青龍が、ついで白鵬が上手を取って吊り合いになり、さささっという感じで西方寄りに動いたあたりの呼吸というものは、ちょっぴりだがかつての栃若戦を思い出した。

外人力士のことがよく問題になるが、少なくともモンゴル力士のお陰で、久しく影をひそめていた、往年の相撲にあって近年の相撲に忘れられていた類いの面白みが、幾分なりと甦ってきたと、私は思っている。時に過激に過ぎること少なくないとしても、朝青龍の気迫は、荒ぶる男の気っ風から生まれる色気というものを土俵に甦らせた。最近の相撲は少し尤もらしくなりすぎていたのだ。(のし上ってきた頃の千代大海にもややその味があったのだが、土俵上の低迷とともに充分に魅力となって開花せずにしまった。しかしかつて柏鵬の反逆児と称した若羽黒に似たところがあって、捨てがたい味を持ってはいる。)

対照的な白鵬の柔らか味が大鵬を思い出せるという声を聞く。同感だが、今度の朝青龍との一戦を見ながら、私の生まれる前の話に聞く、双葉山と玉錦の再来ということを思い浮かべた。気っ風といいタイプといい、風貌までも、その対照の妙によって、その後に併称されたどのペアよりもこの二人の大力士を彷彿させる。朝青龍には縁起でもないことになるが、双葉山と年配に差のあった玉錦は、双葉山が連勝を始めたその場所の敗戦を境に、二度と双葉に勝つことのないまま執念を燃やしながら現役中に盲腸炎で急逝したのだという話を、子供のころ私はいろいろな大人たちから聞かされて知っていた。その最後の決戦となった大熱戦のフィルムも、何回か見たことがある。朝青龍もうっかりするとそうならないとも限らない。そんな危惧をもふと感じさせるところに、白鵬の持つ奥深さがある。

土俵入りは不知火型だそうだが、(前にも書いたが)何といっても羽黒山の不知火型というのが素晴らしかった。私にとっての横綱イメージの原点である。金剛力士といわれた羽黒山に対して、羽二重餅か博多人形のような照国の雲竜型と、好対照という意味でも最高だった。豪快な不知火型が、白鵬によって、新しく優美な風に染め変わるかもしれない。

相撲は角力とも書くように、角逐の中に、気っ風や色気や覇気や粋やいなせや優美やらを感じ取るところに醍醐味があるのであって、つまりは芸を楽しむものである。今場所は私のひいきの安美錦も味のある相撲を見せたが、北の湖時代に活躍した出羽の花とか、栃若の頃の信夫山とか、技に味のあるやさ男の系譜というのも、相撲の美学の上で欠かせぬ水脈である。

ところで、野口二郎の死亡記事を新聞で読んだときは不思議な気がした。(まだ生きていたんだ!)87歳という歳は、日本のプロ野球の歴史の若さを物語っている。戦後まもなくに野球を知り初めた私などの知る、おそらく最も神話伝説時代の空気を伝えるひとりだった。阪神の御園生とか、近畿から中日に移った清水秀雄とか、川上や鶴岡のようなビッグな名前とはまた別な、かすかだが鮮明な、もしかすると私が墓の中まで持ってゆく記憶というのは、親兄弟よりむしろ、彼らの記憶であるのかもしれない。

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