随談第197回 今月の一押し(14)可憐なる魁春

今月の歌舞伎座はやはりなんと言っても『妹背山』の坂田藤十郎だが、それはそれとしていまさらながら驚嘆するのは、梅玉の久我之助と魁春の雛鳥の若さである。思えばご両人とも、もう四十年来、あの役をやっているのだ。侍の綺羅を飾りいかめしく横たえし大小、倅が首切る刀とは五十年来知らざりし、と大判事は言うが、梅玉にしてみれば、私だってこの役こんなに何度も勤めようとは、四十年来知らざりし、と言いたいところだろう。おそらく歌舞伎史上、この両役を彼らほど数を重ね、長きにわたって演じてきた例はないに違いない。

とかく当り前のように見過ごされがちだが、改めて考えてみれば、二人の若さには瞠目せざるを得ない。いまにしてあきらかに見えてきたのは、これが単なる見た目の若さだけではなくて、芸としての若さでもあるということである。二枚目と女形をつかまえて歳のことをいっては何だが、ふたりとも、もう六十をあるいは越え、あるいは越えようかという年齢なのだ。雛鳥のあの可憐さ、ういういしさを思うとき、これは驚嘆に値することではあるまいか。

福助・松江の昔から、いやもっと前の加賀屋福之助と加賀屋橋之助のむかしから、歌右衛門という大きな傘の下で、あるいは庇護され、あるいはその重圧にあえぐかとばかり見なされて、どうもわれわれは、このふたりのことをきちんと正面から見、論じることがあまりにも少なすぎはしなかったか。

梅玉は、それでもまだしもだ。現在の歌舞伎地図の中で梅玉の占める位置はかなり明確になってきているし、それだけの存在感も示している。少しずつでも、先入観にとらわれた目を、自身の力で開きつつあるといってもよい。先月見た『勧進帳』の義経や『め組の喧嘩』の焚出しの喜三郎など、まさしくその好例といってよい。その前の『義経千本桜』とりわけ「渡海屋」の義経など、その最たるものともいえる。

魁春にしても、じつは同じことなのだ。しかし立女形の貫録とか、華やぎといったことがとかく表に立ちがちな中で、魁春の可憐さういういしさは、誰しも気がついていながら、つい、語られること少なくなってしまいがちなのだ。だが思ってもみるがいい。つい、まだ本当に若い若いと錯覚しがちな魁春の雛鳥にせよ、「九段目」の小浪にせよ、『合邦』の浅香姫にせよ、あの可憐さういういしさは、決して、実年齢の実際に若い女形俳優のなせるものではない。歌舞伎役者の仁と芸の絡み合うところにはじめて成立するもの以外の何物でもない。

前回の「一押し」の項で、梅玉の義経や焚出しの喜三郎の、重からず軽からず、大きすぎず小さすぎぬ程のよさが、決してかいなでのものではないことを言ったが、それと相似形のような意味で、魁春の雛鳥や「河庄」の小春のような役の、あれがもうちょっと大々しかったり、重たるしかったりしたら、どんなに芸がよかろうと古風な格があろうと、それはそれで壮観でありはしても、あの芝居あの狂言の中での、雛鳥なり小春なりの存在としての姿ではないだろう。魁春の雛鳥以上に、雛鳥らしい雛鳥を、私はまだ知らないのだ。

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