随談第198回 観劇偶談(その90)コクーン版『三人吉三』

新聞にも書いたが、コクーン歌舞伎の『三人吉三』が当った。六年前の初演もよかったが、こんどは一段と歌舞伎に、黙阿弥に肉薄している。勘三郎・串田コンビのこれまでの仕事の中でダントツに最高である。

一番の理由は、串田演出が黙阿弥とがっぷり四つに取り組んでいることである。部分でなく、全体に挑んでいることである。文里一重の件りは別として、戯曲『三人吉三』の全貌を現代演劇に取り組むのと同じ態度・姿勢で解き明かそうとしたことである。

私は前にこの黙阿弥戯曲を精巧な砂糖菓子にたとえたことがある。天体の運行になぞらえたこともある。私は『三人吉三』を、シェイクスピアのそれとは違う意味での運命劇だと考える。分析をもって事とする近代教育の毒牙にまったく染まることがなかった人にしてはじめて考えられた、しかしきわめて緻密で堅牢な、一種の近代劇だと思っている。

しかし、普段大歌舞伎で見慣れた現行普通の『三人吉三』は、残念ながら、黙阿弥の頭脳が構築したこの戯曲の世界の全貌を見せてくれていない。「大川端」の出会いも、「伝吉内」でいすかの嘴のごとく食い違う父と子の皮肉も、「吉祥院」の運命の予感の迫り来るただならぬ風情も、大詰の「物見櫓」の獅子奮迅も、どれも美しくすばらしい。はっきり言ってしまうが、現行歌舞伎の『三人吉三』は、すべての歌舞伎の中でもわたしが最も愛惜する歌舞伎狂言である。だがそれにもかかわらず、惜しいかな、それはこの黙阿弥の傑作の世界の全貌を充分には舞台の上に現してくれない。それが、私にとっての憾みだった。もどかしさだった。

串田和美は、もとより近代教育を受け、戯曲を読み解くに分析を事とする頭脳の持主である。ひとりひとりの運命を天体の運行のごとくに交錯させ、無常観で染め上げた黙阿弥戯曲を、現代劇を読むのと同じ目で読み解いた。読み解かれたが、黙阿弥の作り上げた世界の構造はびくともしない。それなら串田は黙阿弥にはねかえされ、負けたのかというと、そうではない。見事に、現行演出では蔽われて見えなくなってしまった細部を掘り起こして、木目の生地まで砥ぎ出すように、本来あるべき戯曲の構造を浮かび上がらせた。

和尚を芯にした三人の吉三の関係、伝吉をもうひとつの中心とした、三人の吉三と絡み合い、むしろ戯曲の骨格を作っている八百屋久兵衛等との因果の関係、それが見えてこそ浮かび上がってくる「運命」の在り様。但しその場合、「運命」は無常観で染め上げられたそれというより、現代のわれわれを圧し潰そうとしているそれのように見えてくる。何ならそれを不条理の理といってもいいが、ともあれこうすることによって、串田演出は、三人吉三の最後を、現行演出のような「捕り手の太鼓の音にキッと見得」をして幕にするのではなく、黙阿弥の書いた通りに、雪の中に「三つ巴」に折り重なって死なせることを可能にしたのである。

勘三郎は、現行演出でなら、本人の言うにはお嬢、もちろんそれも見たいが私の観察ではお坊が仁だろうが、串田演出でなら、やはり和尚であるべきことが、今度見て確認された。それと、笹野高史の土左衛門伝吉は、串田演出による限り、傑作である。

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