随談第202回 観劇偶談(94)福助の切れ味

国立劇場の鑑賞教室『野崎村』の福助のお光がいい。久しぶりに、といえば語弊があるけれど、福助のこういう娘役を見るのがなんとなく久しぶりのような「錯覚」を起こした。つまりは、それだけ清新の気に溢れていた、ということである。

いまになって初役というのも不思議なようだが、かなり期するところあった、という感がある。『魁玉夜話』あたりを熟読した形跡もある。すくなくとも、現行のやり方をはじめから検討し直したに違いない。つまり、「誰それのおじさんから教わったとおりにやっています」ではなく、もちろん教わりもしたろうが、自分で組み立てなおした、そういうお光である。

それより何より、はじめ暖簾口から大根を入れた籠を抱えて出ただけで、ぱっと大きな、白芙蓉でも開いたようなはなやかさと、大きさがある。鑑賞教室の通念を、もうそれだけで破っている。

もっとも、大根をきざんだり鏡を見たり、懐紙を畳んで眉を隠して「オオ恥ずかし」と照れたりするところは、福助一流のサーヴィス精神がやや過剰に効きすぎて、可憐な田舎娘のお光よりも、中村福助が前面に出すぎると、役が老けてしまう。ここらが難しいところであり、こわいところでもある。

「四人の涙八つの袖」と、久松とお染が自害をしようとするところで、松江の久松が鴨居に掛けてあった鎌を取って自害をはかるというやり方をみせる。おととしだったか、登場する全員が人間国宝という大顔合わせの『野崎村』のとき、坂田藤十郎がやはり鎌で自害しようとするやり方を見せたが、福助はこのときに、久作と久松お染がやっさもっさする前面に回って、つまり客席に背中を見せて裏向きに坐って三人をとめるという「型」を見せる。ここらが『魁玉夜話』研究の収穫である。

だが何といっても福助ならではなのは、幕切れであって、今度は(何たることか!)両花道を使わないので、本花道を入る久松の駕籠を見送って、お光はかなり下手寄りに立っている。東蔵の久作はほぼ中央にいるから、ふたりの距離はかなり間隔があいている。ここは折衷式で、いつもの菊五郎式でやるのだが、こんなに距離があっても大丈夫なのかなと思うほどのところから「ととさん」とすがり寄る。別に相撲の立会いではあるまいし、そんなことはどうでもよいようなものだが、この一瞬の切れ味が福助ならではであって、見事に見る者の心を捉える。このインパクトはかなりのものであった。

両花道を使わないと、お常お染母子の乗った舟がいつまでも上手に入らず岸辺にもそもそしているのが気になって、幕切れまで急ピッチで盛り上げていく上にいささか言い分があるのだが、福助の一瞬の切れ味はその気分上の欠落を一気に埋め返す。かつて『忠臣蔵六段目』のお輕を演じて、「輕、待て」という勘平の一言に「アイ」と答えて菊五郎の腕の中に跳び込んでくる、その一瞬が、まるでスライディングさながら両足が空を跳ぶかのようであったのを思い出す。

時間切れ寸前に、思わぬ角度からシュートの決まったサッカーの試合でも見るような鮮やかさであった。

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